MENU

ダブル・マチュワード-Sherry9

第5章 Last Order ラストオーダー

マスターに合図をした。
いよいよその時が来た。
二人の前に2つのシャンパングラスとテタンジェが置かれた。
サンジェルマンのあのバーで見た風景と同じだ。

「何、いったい?」
彼女は驚いた様子で僕を見た。

「いいから、いいから」
目の前でバーテンダーがよく冷えたジンをシャンパングラスに注いだ。
とろ~とボトルから流れ落ちるジンは何とも美味そうだった。
テタンジェのコルクをゆっくりと開ける。音が鳴らないようにガスを抜く。
フランスではコルクを抜く時に音がなるはもっとも下品な事だという。
ジンに合わさるシャンパン「フレンチ75」
彼女との思い出のカクテル

「これを初めて飲んでから、もうすぐ4年だね」
グラスの中には思い出という無数の泡が立ち上っているようだった。
「今日はどうしたの?何だかおかしいよ」
おかしくもなる。何せ生まれた初めての事をしようとしているのだから。
言葉を口にしようとするが、なかなか言えない。
どうしてだろう?迷ってる?
いや、単に緊張しているに違いない。言葉にした瞬間後戻りは出来ない。
生か死か、それとも明か暗か?

大学の時に付き合っていた彼女に「結婚しよう」と言った事がある。
その時は、ただ好きだという感情からだけだった。
後先なんて考えてなかった。
その時、彼女に言われた。
「結婚てそんなに簡単なの?」
簡単。そりゃそうだ!簡単なんかじゃない。
その時の僕にはわからなかった。でも、今はわかる気がする。さやかと出会ってからは。

フレンチ75を口にした。ジンの香りに混じってぶどうのかすかな香りが鼻腔を刺激する。
心が落ち着いた気がした。
彼女の横顔を覗き込んだ。23時を過ぎた週末の店はにわかに賑っていた。

「さやか、話しがあるんだ」
僕は彼女の方を向いた。
「もうすぐ4年になるね。さやかと出会えた事で僕は大人になれた気がする。」
彼女が身構えた気がした。

「さやか、結婚しないか」

考えていたセリフではなかった。
彼女がロングヘアーをかき上げて、グラスを見つめた。
今日、ここへ来るまでに何度も創造した光景ではなかった。
僕には彼女が困った表情に見えた。
まさかの沈黙に僕も絶句してしまった。
時が止まったようだった。

「私も話があるの」

心臓の鼓動が早くなっていくのがわかった。

「4月からロンドンに行く話しがあるの。」

言葉が出なかった。急に酔いが回ったみたいに身体が熱くなった。
彼女はおとといロンドンに行く話しが上司からあり、自分は行ってみたいと告げた。
期間は一年間。
黙って話を聞いていた。
彼女にとっての僕の存在は何だろう?
僕にとっての彼女は愛しく大事な存在!
氷を割る音が響いていた。
言いたい事を飲み込むのに必死だった。口に出せば余計な事まで言いそうで怖かった。
彼女は僕を見ようとはしなかった。
何故、今の時期に海外なんだ!
止め処も無く色んな感情が噴出していた。
自分がいやな男になっていく感じがしていた。

「話はわかったよ」
もうこれ以上は聞きたくなかった。
「さやかは行きたいんだよな。それでどうする?」

プロポーズの場は一転して、別れ話の様相に変わった。
一年は長いか短いかは実際になって見なければわからない。
ロンドンに行くという事が、どうのこうのでは無い。
どうして今日のこのタイミングなんだ。どうにもそれが引っかかっていた。
彼女も困惑しているのがよくわかった。
いつもの様に彼女を包んであげれる余裕が僕には無かった。

「結婚は出来ないって事か?ロンドン行くからそれを伝えて別れ話でもするつもりだったか」

いやな男に成り下がっていく。
もう自分の感情が抑えられなくなっていた。
火をつけたタバコを吸う事も忘れていた。
これ先に彼女の口から漏れる言葉が聞きたくなかったのか、身体は勝手に席を立っていた。
会計を済ませた。
「マスター、ごめん。あと頼むね」
いきなりの行動に困惑気味のマスターに声をかけて店を後にした。
店内には人々の会話に混じって「マイファニーバレンタイン」が流れていた。

#NH

この記事を書いた人

前の記事
次の記事