第五章 Last Order ラスト・オーダー
ブルー・ムーンを飲み干すと、彼がマスターに目配せをした。
何か打ち合わせでもしていたのだろうか、まるでダイヤモンドみたいな『フレンチ75』が
2つのシャンパングラスに生まれた。コリンズでないところがとてもお洒落だ。
二人で過ごした1度目のクリスマスに、彼がこう言っていたのを思い出した。
「ダイヤモンド・フィズっていう別名もあるんだって。これ。」
あの頃は、もうそれだけでワクワクしていたけど、今の私にはその煌きが切ない。
乾杯をして、ごく薄いクリスタルに口をつけた。
「結婚しようか。」
リフレインの中で、彼の言葉を現実のものとして受け止めようとした。
それだけで精一杯で、返す言葉が見つからなかった。
しばらく間をおいて、何もなかったみたいにして、私はロンドンに行く話をした。
彼はかなり驚いている様子で、珍しく狼狽していた。
それからしばらくは、何故ロンドンなのか、何故この時期なのか、何故行きたいのか
闇雲に一人で話し続けた。今の状況を話してからじゃないと、結婚のことは考えられない。
私にとっても、彼にとっても大切なことだと思ったから。
彼はその間、たぶん20分くらい、ずっと黙って私の話を聞いていた。
ロンドンに行くことを理解してくれるとも思ったし、賛成してくれると思っていた。
不安だったのはむしろ、あまりに簡単に「行っておいでよ。」と言われること。
1年も離れるなんて寂しい・・・と思ってくれないこと。
反応は予想とは逆のものだった。
フレンチ75にはもう、ダイヤモンドの輝きが失われていた。
バーは金曜日の賑わいに華やいでいる。
二人の間には沈黙とキャメルの煙しか無かった。
「話はわかったよ。」
「わかったって、何が?」
「さやかは行きたいんだよな。それで、どうする?」
「どうするって・・・。」
転びそうになると、いつもその前に助けてくれた。
道に迷ったら、さりげなく方向を示してくれた。
優しくて、穏やかで、温かくて、大きかった彼はここにはいない。
心のどこかで、
「1年なんて、あっという間だよ。さやかが帰ってくるまで待ってるからさ、
結婚の返事はそれからでもいいし、でも今、婚約っていう形になれば、
それが一番だけどね。」
そう、言ってほしい気持ちが生まれていた。
それからまた、別のところで、
「1年がんばってくるから、まーくん浮気しないで待っててよ。
1年後に成田まで、ティファニーのダイヤリング持って迎えに来てくれたら
結婚、考えてあげてもいいよ。」
と、無邪気に言えない自分が歯がゆくもあった。
「結婚はできない、ロンドンに行くから、それを伝えて別れ話でもするつもりだったのか。」
その彼の、思いもかけないセンテンスにより、
私は初めて、涙を伴わない深い深い哀しみという感情があることを知った。
と同時に、今までどれだけ彼に甘えてきたか、わがままを言ってきたかが思い起こされ
申し訳ない気持ちにもなった。
5つも年上で、責任のある仕事を任されて、誰からも好かれる彼を、尊敬すらしていた。
そのことが、もしかしたら彼に無理をさせていたのかもしれない。
私は、もうすぐ4年になる彼とのつきあいの中で、今ほど彼を近くに感じたことはなかった。
すぐにそれを伝えることができない。あまりの哀しみと後悔に途方に暮れるしかなかった。
彼は黙って席を立ち、会計を済ませて「エンドスケープ」を後にした。
スクリーンには、エンドロールが流れていた。
―『My Funny Valentine』
私は最後まで、彼にとっての「かわいい彼女」にはなれなかった。
#PINOKO