第三章 Third Order サード・オーダー
「ごちそうさまでした。実は今から、彼と会うんです。ちゃんと話すつもり。
今のところロンドンに行く方向で。」
「そうなんですね。寂しくなりますけど、1年なんて、すぐですよ。」
遠藤さんは、優しく微笑んで見送ってくれた。
通りは、さっきより数段冷たくなっていた。
22時28分発の私を乗せた地下鉄は、銀座に心を置き去りにしたまま、
淡々と、1秒の狂いも無く、冷静に進んでいるように思えた。
階段を昇って外へ出ると、金曜日の六本木には雪が舞っていた。
粉のように小さく、今にも消えてしまいそうな雪が、
きらびやかな東京の夜に落ちてくる。
人ごみを避けるようにして、左手に六本木ヒルズを見ながら西麻布まで歩く。
ジュエル・ロブションのランチは、二人のお気に入りだった。
日曜日に休みが合うと、昼間からシャンパーニュを楽しんだ。
2階のバーでは、びっくりするほどの大きなグラスで出てくるマティーニを、
ニューヨーカー気取りで、笑いながら飲んだ。
彼が、ドキドキするような葉巻やカルヴァドスを教えてくれたのも、そのバーだった。
ティファニーではよく、シルバーをねだった。
彼は記念日にうとい。大抵の男の人はそうなのかもしれないし、特に不満に思ったことも無いけど
彼を強引に誘って、「何月何日は何の日だから、これ買って。」と、わがままを言ったりもした。
去年の私の誕生日は、彼はイタリア、私はアメリカという長い距離を隔てて迎えた。
「お互い、仕事だから、しょうがないね。」
そう穏やかに言える彼が、頼もしくもあり、寂しくもあった。
ショコラのお店では、彼があまりにも入念に、私以外の女性へのバレンタインのお返しを
選ぶことに機嫌を損ねて、そのまま一人で帰ってしまったこともあった。
つい最近、ミシュランの一つ星をとったお蕎麦屋さんにも、行かなきゃねと
話していたけど、二人の毎日はそれぞれに忙しく、
もうしばらくの間、デートらしいデートをしていない。
何故か全てが過去形になる。
これからのことが、見えてこない。
私は、彼にとって、どういう存在なんだろう。
彼は、私にとって、どういう存在なんだろう。
いろいろなことを考えながら、雪の舞う六本木を7・8分歩く。
西麻布の交差点から少し脇に入ると、控えめな看板が見えてくる。
ゆっくりと扉を開ける。
そこはエンドスケープ、「最後に見た風景」という意味を持つ、二人にとって思い出のバー。
#PINOKO