第一章 First Order ファースト・オーダー
彼とは、就職してすぐの頃、思いつきで参加したツアーで知り合った。
「ウイスキー蒸留所見学ツアー」という名の、スコットランド・ロンドン・パリ周遊の旅。
その組み合わせが珍しかったのと、ゴールデンウィークにまとまった休みがとれたので
直前になって申し込んだ。
目的は、愛した人のことを忘れるため。
実際には、そう間単に忘れられるようなことでもないと思っていた。
「ツアーコンダクターの竹原正孝と申します。」
成田でのこの出会いが、私を変えた。
ツアーには、同年代の女性がいなかった。それはそれでよかった。
性格もあるのだろうが、心に傷を負っていた私は当初、どこかで、すごく冷めていた。
最初は、参加者と距離を置くようにしていたが、子育てを終えた両親ほどに年の離れたご夫婦や
お酒を愛する気さくな方々と旅をともにするうちに、次第に心が軽くなっていくのがわかった。
スコットランドの大自然や、初めて味わうような出来立てのウイスキー
ロンドン・パブのワクワクするような活気、パリで体験した焼きたてのクロワッサン
濃厚なエスプレッソには胃を痛めたが、なにより彼の優しさが、シンプルに、
そしてゆっくりと、私を癒し、浄化してくれるように思えた。
そして一人っ子の私には、5つ年上の彼が、兄のように思えていた。
その安心感が、ときに私に勇気をくれた。
旅も後半になると、私はただこの旅を、できるだけ楽しもうとだけ考えるようになった。
ツアーの参加者とも、ベルボーイとも、ギャルソンとも、そして彼とも
自分でも驚くほど、素直にコミュニケーションをとれていた。
いつの間にか、無理をしなくなっていた。
―3つ離れた席に座っている男性の携帯が鳴って我に帰る。
目が合うと、少し申し訳なさそうに軽く会釈された。
「シャンパンはいいですね。」
しばらくしてその男性が、特別な棚にあるヴィンテージもののウイスキーのボトルを
眺めながらつぶやいた。急な会話の糸口もスマートに思える。
「そうですね。」
私はボトルキャップの向こうにぼんやり光る夜景から目を移すことなく、そう答えた。
それ以上の言葉は交わされなかった。男性もおそらく、察してくれたのだと思う。
バーという場所の空気を共有するための、暗黙のマナーなのかもしれない。
今夜の私は、ここで楽しく会話を続けられるほど大人でも子供でもなかった。
そのことを許容してくれるこの空間に、感謝していた。
#PINOKO