――「表現」という事を考えると、
抽象は堕落だ。という想いが、自分のどこかでつねに付き纏っている。
或は乖離する「気持」と「現実」の、隙間を何処で繋ぎ止めるのか・・・。
例えばクリント・イーストウッド監督の、昨年公開された二本の作品についても、
世間一般では、「グラン・トリノ」の評価が高いようなのだが、
自分にとっては「チェンジリング」こそ、傑作なのであり、
「グラン・トリノ」は、イーストウッドの思いは受け止めるにしても、
やはり、社会の問題意識と共鳴する分だけ、自分的には疑問が残る。
映画だから、セリフは重要だけれど、
「コトバ」だけで表現するのではなくて、「映像」で表現する。
セリフは或る意味、「映像」と別次元のものでもあるので厄介なのである。
例えば、スティーブン・ダルドリー監督の「ザ・リーダー」(愛をよむひと)の、
ケイト・ウィンスレットに、幾重にも覆いかぶさる「困難」に、
「コトバ」はまるで有効に機能してはいない。
そういういまの現実社会のアイロニーとして、
ニッポンでも「ディア・ドクター」西川美和監督が話題となったが、
どうしても笑福亭鶴瓶の演技に、
肝心なところで、NHK番組の素顔が覗いてしまう。
また、「ウォーク・ザ・ライン」のジェームス・マンゴール監督の西部劇ということで、
「3時10分決断のとき」を楽しんだのだが、
ラストのクライマックスあたりの動きには無理があり、
おいおい、カンベンしてくれよ、という状態。
結局メイキングの、時代背景解説で、
「新聞は嘘ばかり書いていた」なんていうひと言が妙に印象に残った。
おなじように、ラッセ・ハルストレム監督だからと、
リチャード・ギアの「HACHI」を眺めて、ハチッ、ハチッ、と呼びかける背景には、
「コトバ」が通じづらい、世の中を感じてしまう。
また、やはり注目の、ダーレン・アロノフスキー監督の、
世界が泣いた!という「レスラー」も、「身体」一本やりで泣かせるけれど、
あまりにも、ミッキー・ロークで・・・。
話題の「スラムドッグ&ミリオネア」ダニー・ボイル監督よりも、
ちょっと古いが、アントニオ・タブッキ原作の、
「インド夜想曲」アラン・コルノー監督のほうが自分には好みで。
ようやくリバイバルで、ヴィム・ベンダース監督の、
「リスボン物語」に辿り着き、冒頭から食入る様に、映画に酔い。
あの、マノエル・デ・オリヴィエラ監督の「階段通りの人々」の階段に、
ジーンと来たのです。
イタリアのナンニ・モレッティ監督(「息子の部屋」)の助監督をしていた、
新鋭アンドレア・モライヨーリ監督の「湖のほとりで」は、
閉塞感のなかで行き場を失った、
ひとびとの「愛」のかたちの不可能性を、静かに浮き彫りにして、
さすがにイタリアは、アモーレ(愛)の国だ。
そして、やはり昨年話題だった、
《オルセー美術館開館20周年記念作品》
オリヴィエ・アサイヤス監督「夏時間の庭」を観たのですが・・・、
印象派美術館が、「オルセー」となって20年。
オルセーの入り口の柱には、多額の基金を寄せた、
ニッポン企業の名が刻まれている。
それを見て、ニッポンの企業は、外では、
こんなにメセナしているのに、国内ではいったいどうなのであろうか。
あるいは、これが海外進出のために払わされる、対価なのか。とか、
妙に複雑な気持ちで、オルセーの柱を眺めていた事を思い出した。
だから、アサイヤスの映像マジックには酔いながらも、
妙にハナにつく、フランス人の保守性のなかに、
ニッポン人の疎外感というか、「抽象」ともいえる、
ステレオタイプの破綻をどうしても感じてしまう。
そんな訳で、まだ観ぬ多くの傑作を除いて、
限りある作品の中から、昨年度の観た映画は、
どれも困難な時代の、とまどいに覆われている。
個人的なBEST3は、
■「湖のほとりで」アンドレア・モライヨーリ監督
■「チェンジリング」クリント・イーストウッド監督
■「愛をよむひと」スティーブン・ダルドリー監督
――というのが、このごろの映画のはなし。
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