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■『クリスマス幻想』 


――ことしも、クリスマスがやって来る。
ひと昔前なら、ボーナスもらって、自分にご褒美とばかり、
秋葉原のレコード店とかへ出かけていって、
普段買えない、ボックス物のCDとか買ったりしたものです。

クリスマスプレゼント。クリスマスセール。クリスマスディナー。
巷も家庭も、ここぞ、とばかりに盛り上がった。
クリスマスとは、日常ではない非日常の、「特別な一日」なのであった。

しかし世の中が情報化社会となると、
利便性の背景で、バーチャルな世界の暮しへの浸透は、
日常・非日常の境界も遠ざけ、
あらゆるものを陳腐化し、
物事の意味さえ、どうでもいいような錯覚に陥ってしまう。

そういう、進化といおうか、退廃といおうか、
ワケのわからぬ世の中を遠巻きに眺めて、
いま一度、われに立ち返って、
おいしいワインで、静かに、クリスマスを祝おうと思います。

  ――以下
    ■上総英郎『クリスマス幻想』より、抜粋引用します。 
  
   
  神と人とのかかわりを事実と信じるために、
  幻想にいたる――道、つまり想像の力によらねばならぬことを、
  私たちは正しく認識しておかねばならない。
  想像する力、想像の自由もまた、
  われわれに与えられた恩寵の証なのである。
     
  十二月二十五日、きびしい冬のさなか、救い主が生まれた。
  ベツレヘムの馬小屋で。
  これが幻想であったとしても、この幻想は世界に愛の種子をはぐくむのだ。
     
  人の子が誕生し、その誕生の背後に、多くの嬰児たちの死があったこと、
  この事実を背負ってこそ、クリスマスの意味は深まると思う。
  クリスマスは子供たちだけのものではない。
  無償の施しの欲求を、
  それは世の成人たちの心に喚び起こす不思議な促しをもっている。
  なぜプレゼントの意欲が促されるのか?
  子供たちを喜ばせたがる親の心の本性はなにか?
  私たちが生きているこの世のなかは、
  多くの人たちの誕生と死の限りなく繰り返された世のなかなのである。
  私たちが、それぞれ自分の内面をみつめること 
  ――クリスマスはそのためにこそ必要であった。
  
  地上はきびしい寒さに包まれている。
  この寒さのなかで己れ自身をみつめること、
  <施し>の意味を再確認し、
  その報酬を求めぬ心を培うこと、
  それがクリスマスの内的な意味であろう。
   

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