MENU

■當麻寺にて 




宗教寺院というのは、人々を救う一方で、
カネ=権力と結びついて、おおきく退廃して、
人々の恨みも買って、幾度も火を放たれ、
その都度カネ集めをして復興してきたのであろう。
いまでは考えられないが、長い歴史の時間で見ると、
お寺は火事が多すぎる。

だから、銀閣寺にある「銀沙灘」を観た時には感動した。
これは、なんだかんだいっても「焼跡」そのものだ。
ここでカネを集めて、復興したところで、また燃やされてしまう。
そう思ったかどうか、だから砂を轢き詰めて・・・、
それが足利義政のコンセプトを受け継ぐものなら、足利義政はエライと思った。
ハコモノ=伽藍仏教に背を向けたのだ。

そういう、ヨタ話はさておき、
・・・なんていっても、終わりまでヨタ話だけれど。
ヤマトではもっとも興味深い古寺である、
法隆寺とか當麻寺は、
なぜ此れほどまで人を引きつけるのか。
久しぶりに、
二上山の山懐に抱かれた葛城の里の當麻寺を訪ねたのだ。

関裕二著『古代史謎解き紀行・ヤマト編』ポプラ社刊
を旅の手引きに。
  ・・・この本を手にヤマトの地を歩けば、
   いにしえびとの声が、聞こえてくる。
   隠された古代の秘密が、見えてくる。
と表紙にも書いてある。

《当麻寺と中将姫伝説の秘密》。
御蔭で、この本に導かれて、漠然とした疑問が、
ハッキリとした輪郭を持ち、そして風景が奥行きを帯びて来た。

しかし背景をなす二上山を、
「ふたかみやま」と呼ぶか、「にじょうざん」と呼ぶか、
自分は「にじょうざん」と言っていたので、
関氏が紀行文の冒頭で、
  
  ――(ちなみに、二上山を今は「にじょうざん」と呼ぶが、
     こんな無粋な名前、どうにか元に戻せないものか・・・)

という一節を目にして、ギクッとなった。
そして、山を仰ぐたびに、にじょうざん。いや、ふたかみやまだ。
といい改めるものの、一度染み付いた記憶はそう簡単には直らない。
関氏の古代への思いは十二分に理解できるし、
げんに自分も関氏の紀行文に導かれて、こうして旅をしている。

しかし、どうして自分は、「にじょうざん」と呼ぶようになったのか。
旅のあいだ中、その事が、サカナの小骨のように引っかかっていた。
帰って暫らくして、本棚の奥から、以前読んだ本にあたって見た。

小林秀雄「無常といふ事」・・・なんだか、いまとなっては思わせぶりだ。
――あっ、そうだ、謡曲『当麻』だ。

   地謡――光さして、花降り異香薫じ、音楽の聲すなり。
         恥かしや旅人よ暇申して帰る山の、
         二上(にじょお)の嶽とは
         二上(ふたがみ)の山とこそ人はいへど、
         真はこの尼が上りし山なる故に、
         尼上(にじょお)の嶽とは申すなり 老いの坂を上り、
         上る雲に乗りてあがりけり紫雲に乗りてあがりけり。
                               (中入)
※注に、「二上の嶽」=二上山の事だといふが化尼の上った山だから、
          尼上の嶽といふべきだとの故事つけである。
          =謡曲全集巻六 野上豊一郎編より。

・・・そうか、そうだったのか。
600年前の世阿弥の時代も、
やはり今日と同じように二上山は、
「ふたかみやま」だ。「にじょうざん」だ。と言っていたのだ。
もっとも、謡曲の台本はつくりものだと言ってしまえばそれまでだけれど、
こういう、音読みと訓読みの使いこなしにこそ、
この国のひとびとの屈折した「美」意識が潜んでいるようにも思える。

それはさておき、葛城山と二上山に抱かれた、
當麻寺には、いまもたしかに伝説が息づいている。
その伝説の根幹をなす行事が、
浄土信仰の「練供養会式」だ。
練供養会式とは、
物語やクスリにもなっている、伝説の中将姫が、
生身のまま成仏したサマを、
二十五菩薩の、極楽堂と娑婆堂への往来で再現するのだ。


                   (當麻寺パンフより引用)


お寺のパンフレットには、
その「二十五菩薩来迎像」の写真が載っている。
手に手に楽器を持った菩薩たちが、
さまざまなスタイルで踊りの中に陶酔している。
菩薩たちは、なんとも美人揃いであり、なんともエロティックである。
この写真を観ただけで、一発で、このお寺が好きになった。

・・・そうか、そうだったのか。
妙なる楽の音に導かれて、
極楽浄土とは、やはり世の中の根本は、酒と女なのだ。
そういう、アタリマエのことを素直に受け入れて、
しかも涼やかに語り伝える事こそ、人間の品性というものなのだ。
しかし、西欧の主観論以降、酒=薬、女性からも、神性は失われてしまった。
そして品性無き者は、これを限りなく悪用する。それも歴史だ。

・・・そんな事を思えば、
このお寺が、こうして伝説につつまれて、
以後、燃やされることも無く、
永い年月を経て来る事が出来たことにも、至極納得がゆくのであった。

それで、謡曲の『当麻』でいえば、
ここはあくまでも涼やかに、けっして熱くなってはいけない。
そうだよな。これはあつくなったらストリップショウだぜ。
そこは世阿弥元清氏も、重々承知で、
ひたすら濁り無く、涼しくを基調音に、乱れてはイケナイと諌めている。
そんな一節を、ニヤニヤしながら読んだわけだ。

 ――ただ頼め。
 ――頼めや、頼め。
 ――慈悲加佑、
 ――令心不乱に、
 ――乱るなよ。
 ――乱るなよ。
 ――十声も、
 ――、一声ぞ。ありがたや。

とクライマックスのシテの早舞へと導くのだ。

ついでにいえば、能『当麻』は、
三老女と云われる秘曲『檜垣』『姨捨』『関寺小町』
に次ぐ重い曲とされているのは、
中将姫の品位を、如何に気高く表現出来るかにかかっているからである。



――ここは當麻寺奥院の奥の浄土庭園。
冬の装いのまえ、紅葉の中で、
ひと際鮮やかに、十月ザクラが満開なのであった。

#■JOURNY

この記事を書いた人