昨年秋大阪で行くことが出来なかった「佐伯祐三展」を、
札幌でようやく鑑賞する事が出来た。
図録や絵葉書には、没後80年~パリで夭折した天才画家の道~とある。
佐伯祐三(1898-1928)は、お寺の次男として大阪に生まれた。
美術学校を経て、訪れた二度目のパリで、その30年の短い生涯を閉じた。
作品展は佐伯の作品の軌跡を、5章に区切って展示してあった。
まるで憑き物に憑かれた様に、ひたすら「表現」を追求し、病に倒れる。
その短くごく限られた時間は、
「大阪・東京」「最初のパリ」「東京下落合」「パリふたたび」「最後の三ヶ月」と、
同時に背景の移動をも伴うので、起承転結、
まるでツアーのスケジュール表をみるように、わかり易く説得力を持つ。
そして短い時間と場所の、制約を飛び交うような、
速度感がリアルに凝縮されたタッチの作品群に感動する。
そして、・・・そうか。
「天才」の為せる業とはこういう事をいうのか。と妙に納得する。
しかし、「天才」とは何か。凡人と何処がどう違うのか。
そこのところも知りたくて、作品展へ寄り道をしたのだ。
佐伯の描くパリの世界は、
重苦しく暗い青春の色調に覆われているのだが、
その作品の表面は、あくまでも光沢が失われていないから、
描かれた風景は、やはりお洒落な巴里なのだ。
それは時を経た同時代の、過去に見た他者の作品と比べても、
あまりにも違って、表面が輝いているのに、まず驚いた。
――パリで暮らして半年、
描いた「裸婦」をみてもらった野獣派の巨匠ヴラマンクの、
「アカデミック!」という怒号に佐伯はうちひしがれる。
そのひと言がトラウマとなって、
表現する事との、命賭けの葛藤がはじまる。
「ようやく絵画が出来かけたが」、
結核のためパリを離れて、一時帰国する。
新宿の下落合にアトリエを構えた彼は
「日本の風景は絵にならん」と語っている。
誰しも、パリから帰れば、
パリには街灯はあるが、街に無粋な電柱は無いから、
街の電柱は鬱陶しいものに感じられる筈だ。
しかし、その電柱が病的にも風景の中で乱立する、
展示された《下落合風景》連作を見て、
やはり「天才」とは何かと、わたしは立ち止まってしまった。
ヴラマンクの「アカデミック!」怒号にうちひしがれた自画像も、
ノッペリとまるで電信柱のようであり、
他の作品に描かれた道行く人の姿にも、まるで山下清を思い出す。
だから、二度のパリ行きの、短いインターミッションのような、
「絵にならん」、一連の《下落合風景》こそ、
佐伯祐三の眼が、どういう風に世界を捉えていたのか、
はっきりと表われているような気がした。
凡人にはそれは「電柱」そのものでも、
佐伯の眼は、それは「電柱」であるよりも、
「面」を遮る「構築物」と捉えているのであろう。
そこには「電柱」という固定概念や、社会通念は剥離され、
ただ眼が捉えた、風景の中の「挟雑物」として絵画の中でもうっとうしい。
そう観てみると、パリで制作された絵画の中の、
並木道も、カフェのイスも、壁の広告文字と同格のタッチをなし、
佐伯の眼が見ている「線」は、「面」の中にこそ存在するのであった。
ひとたび帰国はしたが、彼にとって、
抱え込んだトラウマから解き放たれる場所は、
やはり、パリでなくてはならなかった・・・。
ふたたび戻ったパリで、佐伯は、
さらにいっそう憑かれたようにキャンバスにむかう。
「ようやく絵画が出来かけた」、それを自己完結しなくては収まらない。
結果的に人生の「結」となってしまった、
この時の短期集中の作品群は鬼気迫るものがある。
しかし精神のバランスはすでに、おおいに失調し、当然病に蝕まれる。
そうして燃え尽きるように、短い生涯を閉じるのである。
――展示終わりの作品の、そのキャプションが気になった。
佐伯芸術の到達点。病床を訪れた友人に彼は言う。
「あの二枚だけが僕の最高に自信のある作品なんだよ」
あの二枚とは、1928年制作の《扉》と《黄色いレストラン》遺作だ。
・・・そうだよな。
「扉」こそ、何処の世界にも存在する、ひとつの「面」だ。
それはパリで在っても、パリでなくても何処でもよい。
「アカデミック!」なんて云わせないからな・・・。
――美しいものには、かならず「物語」が必要なのだろう。
だから、佐伯祐三は~パリで夭折した天才画家~なのだろう。
・・・でもなあ、それでもあまりにも何だよな。
なんて思って、手元の入場券をみると、
~パリに生き、パリに逝った画家の情熱~
と札幌展では、タイトルがやんわりと変更されている事に気付いて、
なんだかほっとした。
そうして、わたしには、
《下落合風景》連作の、黒い不揃いの電信柱が、
佐伯祐三の、もうひとつの素顔として、妙に記憶に残った。
――こうして「佐伯祐三展」は、
ずいぶんと回りくどい寄り道になってしまったのである。
#■OTHERS