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■『グラン・トリノ』を観る。 


クリント・イーストウッドの新作『グラン・トリノ』が、
ようやくDVD化されて、
120インチホームシアターで、さっそく鑑賞する事が出来た。

――妻に先立たれた、一人暮らしの老人ウオルトは、
きょうも苦虫を潰したような顔付で、
星条旗を掲げるポーチで、ビールを飲んでいる。
周囲の住宅街も、難民が移り住み、ずいぶん変化してしまった。
時たま訪れる、息子達も、孫たちも、
まるでウオルトの気持ちなど届かない世界で暮らしている。
変わらないものは、50年かけて揃えた、倉庫の工具の山と、
宝物のヴィンテージ・カーのフォード「グラン・トリノ」だ。

変化する世の中から、
置き去りにされたような、
重苦しい疎外感を、
軽口叩いて、こころの奥底に仕舞い込んでいる。
それが「男の会話」だ。
「男の振る舞い」だ。

――この意味深長な、重苦しいドラマも、
イーストウッドのしぐさ、アクションのひとつひとつが、
見覚えのある、パターンの積み重ねで、
クスクスしながら、鑑賞しているのだ。

うん、これは「ダーティーハリー」だ。
うん、これは「ダーティーファイター」だ。
ここ、「アウトロー・ジョジーウエルス」。
これ、「ホンキートンクマン」。
これは、「ハートブレイクリッジ」ではないか。
そして、これは「ペイルライダー」。
あっ、「許されざる者」だ。
うん、これは「トゥルー・クライム」。
あっ、「ブラッド・ワーク」。
・・・・。
そんな具合で、
イーストウッドファンなら20世紀の、
バブルの頃から実感していた、
リバータリアン/イーストウッドの主張は、
いまや揺るぎ無い確固たるものとなった。
それは、コトバを変えれば、
こんなはずではなかった「アメリカの夢」の、
再生への願いでもある――。

ウォルトの宝物のヴィンテージ・カー
フォード「グラン・トリノ」1972とは、
イーストウッドの監督デヴュー作
「PLAY MISTY FOR ME」(1971)
と奇しくも時が重なる。
例によって、商業主義的には、
おトボケの特典映像とかでこじつけているが、
揺るぎ無く貫徹されたメッセージから受け取るものは、
イーストウッドの「遺言」なのだ。

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