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Bunahabun

 ブルイック・ラディ蒸留所から「A846」を北東へ20Km弱、キエルという小さな集落を過ぎたら国道を離れる。そこから、対向車があればどちらかが後退して譲らなければならないような道を、北へさらに5Km。

 ブナハーブン蒸留所の看板は、わたしたちの身長よりも高さのある岩礁の上に、威風堂々と設置されていた。。
ボトルラベルそのままに描かれている船乗りは、ピーコートに、タータンチェックの毛糸のベレー帽、たなびくマフラーに身を包み、防寒の意味もあって髭は伸ばし放題。そして、はじける飛沫を遮るように、または波浪の険しさを訝るように、右手を翳して海の彼方を眺めている。銅版画のタッチだが、その色彩と光景がありありと感じられる。 
 わたしの父がまだ船乗りだった頃、いつ命を落としてもおかしくない海の仕事は、陸で待つ家族の気持ちの隅に、常に小さな不安の肝をもたらしていて、特にオホーツクの海で「200海里問題」が浮上し始めたあたり、きな臭い領域で、2、3ヶ月ものあいだ寄港せずに続くスケソウダラ漁は、当時、本当に頻繁に「ソ連」に拿捕されてしまう漁船が相継いだりして、こちらもだいぶ緊張を強いられた。
 わたしは小学校の低学年で、夜7時ぐらいからのテレビ番組を見たくてしょうがないのに、その時間帯にはラジオで「漁船操業放送」なるものがあって、母は、母の特権で、毎夜テレビをバチンと消し、6畳2間の家の中で、いちばん電波が入りやすいと信じられていた北側の部屋の、タンスの上に置かれた聞き取りにくいラジオのツマミを、こまめに左右に動かし、音の悪さにイライラしながら、周波数を拾っていた。
 それがどういう儀式なのか解かろう筈もない弟は、「シーッ!」とたしなめられ、耳を引っ張られたり、お尻を叩かれたりしても、母の気を引こうと、うるさく騒ぐし、背中におんぶされた小さい妹は、赤ん坊ならではにむずかって、母のイライラを助長させていた。わたしはすべてにハラハラしながら、息をひそめて母の顔色を窺っていたものである。
 知らない国の言葉が暗号のように流れてきたり、通信講座のようなものが聞こえたりする。そんな電波の隙間から、父が乗った船の、今日の状況が読み伝えられる。
「・・・石巻港出航、第31共勝丸、オホーツク海で操業中・・・」
辛抱強く聞き入って、安否の確認が出来るのはこれだけである。それでも耳障りな音が切られ、母の表情に安堵の色が広がるのが嬉しかった。
 ブナハーブンのラベルに記された一行、「Westering Home(西の故郷へ)」というフレーズに込められた意味を噛み締めると、そんな昔の光景が甦ってきて、なんだか、数多あるウヰスキーの中でも、わたしにとっては、特別に心が寄り添ってしまうウヰスキーである。
 まるで、船乗りのためにあるようなブナハーブンは、意外にも、アイラモルトの中で最も軽やかだと言われるが、それはむしろ、孤立した海上で、過酷な仕事に従事する男性にとって、静かな安らぎとなったのではないだろうか。

 ブナハーブン蒸留所が操業停止中だということは承知の上で訪れたのであるが、案の定、鉄柵の門戸は固く閉ざされていた。
しかし、「せめてディストラリーの全景をカメラに収めたいね」ということで、要塞のごとき岩礁をよじ登り、不法侵入的に敷地の内側に降り立った。
 辺鄙な場所ゆえ、職人やゲスト用の住居も併設されているというから、建物の規模も大きく、操業していれば生産量も巨大な蒸留所である。けれども奥の事務所らしき棟の前に、車が駐車してあっても、人影はなく、音のひとつも漏れ聞こえてはこない。
 樽の作業場では、「仕事の途中で人間だけが何処かにワープしちゃったのかしらん?」というぐらい、道具類が無造作に散らばったままであり、部屋の隅には、錆付いたタガ(帯鉄)が、なにかの時のためにと取ってある輪ゴムのように集められ、放置されていた。堤防そばに適当に積まれた樽だけが、潮風と長い時間に晒されて、ただただ静かに、メンテナンスの手がかかる日を、気長に待っているのだった。
(今度来たときには、再稼動してるといいね)(岩によじ登らなくてすむといいよね)

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