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茅ヶ崎 開高健記念館

 
47歳のわたしのボーイ・フレンドの中で、
一番年長である、元週刊ポストの編集者からデートの誘いがあった。
 
定年から数年は、これまでのリズムを維持したいと
昼頃に東京のジムに出勤し、神保町の古本屋を流し、
イギリスであったなら、これからハイ・ティーが始まろうという時間には
すでに上海蟹に舌鼓、紹興酒の杯を重ね
「でも、もうTAXIチケット無しだから大変なのだよ」と
京急線で1時間30分のご自宅へ帰還する生活を送っていたが、
「そろそろ通勤がしんどくなってきた」と申すので
わたしが横浜へ出向くことにし、
駅ビル内にある、気心が知れたリストランテで待ち合わせた。
 
3時の約束までどう過ごそうか考えると
せっかく横浜方面へ行くのなら、機会があれば・・・と想っていた
開高健記念館への来訪が浮かんだ。
(そうよ。ポン。その話題で、編集者の彼と更に面白い談議が出来るはずよ)
 
茅ヶ崎なんて、サザンオールスターズの伝説の茅ヶ崎ライヴ以来である。
いや待て、上大岡に住んでいたころ、会社帰りに銀座ではしご、
酔っぱらって東海道線を乗り過ごし、茅ヶ崎で覚醒。
TAXIで上大岡まで戻ったんじゃなかったっけ?
でも¥523しか持ってなくて「お部屋に行って持ってくるね~」と言ったら
「お客さん、もういいから、早く帰って寝な。」と
温かいんだか、冷たいんだか、判らない事態の中で、
サァーと走り去っていったのよね、あのTAXI・・・。
なんてことをつらつら想い巡らせながら、徒歩30分。
 
釣りとパイプとお酒。
男性の嗜好として最高。(適宜なら)
ウイスキー、ワイン、リキュール。お酒の瓶がBarなみにずらーっと。
そのラベルが全部理解出来るわたし。(言うまでもなく、サントリー系多々)
(バッカス様、やっぱり貴方はわたくしを、一端の飲み手に育ててしまわれたのですね)
 
編集者曰く
「彼はベトナム戦争で現実を見すぎて、その後、小説が書けなくなってしまったんだよね」
地獄の体験は、弾丸のように炸裂して五感を震わせ、心を破壊させたのだろう。
以後は、地獄の欠片を、
胆管に詰まった小石のように体内に抱え続けながら、一生を過ごしたのだ。
どうしても、東日本大震災で被災した人々を想わずにはいられなかった。
だから、芳名帳には、あえて『南三陸町 佐々木ふじ子』と記して来た。
天災により、一瞬にして、愛する人を亡くした、あるいは、故郷を失ってしまった
地獄の苦しみの中にいる人々がこの日本にどれだけいることか。
悲しみを引き摺るしかなく生きている人々が、どれだけいることか。
果たして、これは体験した者でなければ理解しえないのだろうか?
 
開高先生に、大きな宿題を出されようだ。
 

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