カリラ蒸留所はブナハーブン蒸留所から3Km戻った辺り。来訪者を迎えるのは、門柱代わりのカリラのシンボル、アザラシのモニュメントである。
さて、各蒸留所には、来訪者の記録をとるためにゲストブックが用意してあるのだが、わたしたちには、とてもとても気になる存在の人がいた。わたしたちがアイラ島で訪れるディストラリーの、いつも2、3組前に、名前が記されている、ミスター吉田。アイラ島に滞在中、いちどぐらいは御顔を拝見し、同胞のよしみで、やあやあと、ウヰスキーを酌み交わす機会があるだろうと踏んでいたのに、ついに、蒸留所巡りの最終となるこの蒸留所にも、車のブレーキ痕のようなサインだけを残し、すでに彼の姿は無かった。もしや、間に合うかとホームに駆け上がってみたら、たったいま出てしまった新幹線が巻き上げるつむじ風だけを見送るような、一陣の寂しさを感じずにはいられない。
・・・それにしても、島を廻るには、規定量内飲酒なら自主運転、道徳的観念を重んじる方ならタクシー、そして、バイキングなら自転車だけれど・・・
「ねぇ、良さま。一本道の、いったい何処ですれ違ったのかしらん?」
「山男ならハイキング、水泳の選手なら海からという手もあるぞ」
いずれにしろ、きっと彼もまた、会社の夏休みを利用して聖地巡礼の旅に出た、独身貴族の一匹狼的ウヰスキーラバーだろう。
開高健氏のエッセイに『ウヰスキーは人を沈思させ、コニャックは華やがせ、ぶどう酒はおしゃべりにさせる』とあるが、そうなのだ、ウヰスキーに手が伸びるとき、人は、孤高で、虚弱で、内に抱えた過分な気持ちを持て余し、腐敗し、打開と、守護を求めているものだ。しかるに、群れを好むウヰスキー飲みはいないのである。・・・群れを好む釣り人がいないように。結局は、個々の指先の、酒と、魚と、対峙するのだから。
カラマツの発酵槽の中で泡立つものを、じっと見ていると、意識はそんな思考の襞に入り込んでゆく。
良さんは、スピリッツレシーバーを操作しているスコッツに、またしてもニッカの原酒を振る舞っている。果たして、ウヰスキーを勧めて遠慮する輩が、この地にいるのだろうか?勧めれば、赤ら顔をほころばせ、おおそうかと、瓶をくわえてラッパのみする方々ばかりである。しかし、一旦ウヰスキーを口に含めば、忽ちプロフェッショナルの顔になって液体をゆっくり転がし、味蕾のひとつひとつに行き渡らせて、たっぷりの間合いを取って真剣に評価する。
「これは本当に日本のウヰスキーなのか?」
彼は不安と喜びの気持ちで、おそるおそる尋ねてくる。
「YES」
・・・知るはずもなかった真実を告げられたように、小さく息を呑んで、大きく眼を見開く。
なんだか「君は本当にわたしの息子なのか?」「ええ、僕はあなたの息子です」みたいなやり取りに近いんじゃないか。
ティスティングは『CAOL ILA 15years』。バニラ、バタークッキー、パン屋のオーブンから漂う香り。それと、超ビターチョコを齧った感じと、少しだけシナモンのニュアンス。鼻と喉の分かれ目で、ぴりりとスパイシーな粒子が広がる。宝塚の男優のようなユニセックスなイメージ。
敷地を出ていちばん近所の家の窓から、、こちらを観察する視線を感じて振り向くと白い壁に黒い窓枠、それに同化して、白いシャツに黒いタキシードを着た猫が、執事のように待機していた先程グラスを交えた、ほろ酔い加減の売店のおじさんが、車で1分の坂道を、ランチのために運転して帰宅したのだ。
執事は俊敏に窓を離れ、姿勢を正して、主人を出迎えた。