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アメリカン・ウイスキーの歴史 2

 
 19世紀、ウイスキー造りはいよいよ盛んになります。1838年の調査では、ペンシルヴァニアの3600、ケンタッキー州の2000など、大量の蒸留器から尽きることなくウイスキーが生み出されていました。
 

 飲酒は悪習ではなく、むしろ心身を充足させる効能があると信じられ、男だけでなく、女も子供も朝からウイスキーを口にし、1830年には国民一人あたり、年間に7.1ガロンのウイスキーを消費していました。
 ちなみに、今日のコーヒーブレイク(英国のティータイムにあたり、独立戦争で紅茶が入手しにくくなったアメリカでは、代わりにコーヒーが普及した)は、午前と午後の2度、給金の一部として仕事の合間にウイスキーが支給されていた、ラム・レーションと呼ばれる当時の習慣が転じたものです。
 当然ながら弊害も生じ、19世紀の初め、ニュージャージー州の製鉄場の日誌には、「全従業員、酔っぱらう」、「ピーター・コックス、ひどく酔い、寝てしまう」、「エドワード・ラッター、酔って出勤。リンゴ酒のかすで酔ったのだとの報告あり」と、労働者の酒浸りのありさまが嘆きをこめて記されています。
 蒸留酒税の税収も、国税のじつに3分の2に達しました。アメリカは国ぐるみでウイスキーに依存していたといっても過言ではないでしょう。実際、アルコーリック・リパブリック、呑んだくれの共和国、と呼ばれていました。 
 
 そのころ、北部と南部の軋轢も深刻さを増しつつありました。
 
 いち早く近代化して人権意識が高まり、奴隷制の廃止を迫る北部に対して、アメリカの輸出品の半分を占める綿花産業を担い、国家を支えていた南部が反発したのは必然でした。
 1793年にイーライ・ホイットニーが綿繰り機を発明して飛躍的に生産性が上がり、ますます奴隷の労働力を欲していた南部のプランテーション経営者にとって(事実、奴隷の人口は19世紀半ばの30年だけで400万人に倍増し、綿花の輸出量は5倍に及んだ )、社会そのものの崩壊を意味する北部の要求に譲歩できる余地はなかったのです。さらに、英国との競争に晒され、1823年のモンロー宣言以降、保護主義を強める北部と(20年代の関税率は6割)、自由貿易を望んだ南部は、外交方針を巡っても対立していました。
 北部の資本主義経済の圧力に抗う南部の植民地的経済という、くしくも、同時期に封建制の最後を迎えていた日本の立場にも似た、時代の転換期ゆえの衝突です。  

 そして、1861年、サウス・カロライナほか奴隷州7州が南部連合の結成と独立を宣言したことで、ついに南北戦争が勃発します。 

 4年間にわたって続いた内戦は、両軍合わせて62万人に上る戦死者を出したすえ、1865年に南部連合が力尽きて終結しました。
 独立戦争の死者数は5千人足らず、第2次世界大戦でヨーロッパ、太平洋の両戦線に兵士を送った米軍のそれですら32万人ですから、いかに激しい戦いが繰り広げられたのかが分かります。
 南部は灰燼に帰し、いまもって南北間の格差は埋まっておらず、南部出身の大統領も、1977年にジミー・カーターが登場するまで、110年ものあいだ選出されませんでした。 

 もちろん、奴隷制度は人道に背く忌むべき大罪ですが、リンカーン大統領が戦争のさなかの1862年に謳った奴隷解放宣言は、対外的に南部連合の印象を悪化させ、戦局を有利に導こうとの打算も働いていました。彼の理想は、100年後に黒人がみずからの努力で手にするまで、結局のところ実現されなかったわけで(リンカーンの暗殺後、1883年の連邦裁判所の判決により、レコンストラクション以前には自由黒人に認められていた公民権が否定され、ジム・クロウ・ロー、黒人差別法が各州で施行された結果、人種差別はかえってひどくなっていく)、すべての非を南部に押しつけるのは公平な見方ではないでしょう。戦後、軍政下に置かれて、利権を漁るカーペット・バッガーに荒らされた南部では、不満の矛先が黒人に向けられKKK団が結社されたように、負の連鎖も招きました。 

 なお、南部の白人の過半はスコティッシュかスコティッシュ・アイリッシュ(アルスター地方出身のスコットランド系アイルランド人)だったらしく、南軍旗はスコットランド国旗のセント・アンドリュース・クロスに倣ったといわれています。 

 南部人(ディキシー) の北部人(ヤンキー)への積年の恨みは、ウイスキーにまつわる事柄からもうかがい知れます。
 例えば、密造がとりわけ南部で多いのは、北部人が牛耳る政府への反感が、順法意識の低さに結びついているのも理由のひとつですし、南北戦争では連邦に留まったものの、ケンタッキー州は本来、奴隷州で南部色が濃かったため、 カーネル・リー、オールド・フォレスター、レベル・イェルなど、南軍の将兵への共感をこめたネーミングのバーボンが少なからずあるのに比べ、名将といえどもグラント、シャーマン、シェリダンら北軍の将軍にちなんだ銘柄は見当たりません(広義で探せば、リンカーンが幼少期に暮らしたケンタッキー州の地名のノブ・クリーク、南部連合への加盟に反対してテキサス州知事を罷免されたサム・ヒューストンがある)。
 
 南北戦争はウイスキーにも大きな影響を与えました。ローカルな産業に過ぎなかったウイスキー業界に北部資本が参入し、大量生産の工業化が始まったのです。
 西漸運動にともない需要は拡大するいっぽうで、労働力にも困りませんでした。戦乱による失業者や解放奴隷が世に溢れていたからです。ウイスキーのブランド化も進み、現在も生き残っている大手のメーカーと有名な銘柄のほとんどは、この19世紀後半に誕生しました。
 また、生産の中心地も、ペンシルヴァニアからより市場に近いケンタッキー州へ移っていきます。  
 
 さて、ときあたかもワイルド・ウェストの時代。とくに南北戦争の前後、1848年のメキシコ割譲とカリフォルニアでの金鉱の発見、1869年の大陸横断鉄道の開通によって、人びとはこぞって土地や商品への投機に群がります。 
 

 ギルデッド・エイジ、金メッキ時代の到来です。 

 今回はここまでです。来週は、金メッキ時代のウイスキー汚職について取り上げます。 
 

#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法

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