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アメリカン・ウイスキーの歴史 5

 
 独立心の旺盛な国民性に、飲用に適した水が乏しかった風土的な事情が重なり、アメリカは建国以来、飲酒には寛容な国でした。そもそも、ピルグリム・ファーザーズがプリマスを入植地に選んだのも、メイフラワー号に積んでいたエールが尽きかけたためだと伝えられていますし、植民地時代の1735年、英国王ジョージ2世が命じた禁酒令もまったく顧みられませんでした。
 しかし、19世紀、安価で大量に造られるようになったウイスキーは過度の飲酒を招き、とりわけ、1840年代以降、アイルランドのジャガイモ飢饉、ドイツの統一戦争の混乱から逃れてきたバイエルン地方のカトリック系移民の酒への鷹揚さは、ピューリタリズムの倫理観から見れば堕落のきわみに映りました。
 その結果、国民のあいだで禁酒、節酒の機運が高まります。

 まず、1833年に国軍兵士へのウイスキーの配給が停止されました。次いで、1846年のメイン州を皮切りに、ヴァーモント、ニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ、コネチカット、ロード・アイランド州ほかニュー・イングランド地方を中心に、1855年までに11州と2準州が禁酒法を施行します。

 多くはピューリタリズムの気風が色濃く、いち早く工業化が進んだ州で、プロテスタントのモラリティに、生産性を向上させたい産業界の思惑が結びついたものでした。

 ただ、大半は十数年で撤廃され、20世紀まで継続したのはメイン、カンザス、ノース・ダコタの3州のみでした。教会や資本家の高みからの押しつけは民衆の支持を得られなかったうえ、1861年に南北戦争が開戦すると、兵士の士気を保つためにはウイスキーが欠かせず、戦費の調達に腐心する政府にとっても、大きな歳入源を手放すわけにはいかなかったのです。
 

 最初に全国的な禁酒運動を展開したのは、1826年にボストンで発足したアメリカ禁酒教会(アメリカ・テンペラス・ソサエティ、ATS)です。1836年にATSを引き継いだアメリカ禁酒同盟(アメリカ・テンペラス・ユニオン、ATU)は、おりからの不況を追風に150万人もの会員を集めました。また、1840年代にボルティモアで酒浸りの6人の男が戯れで始めたワシントニアン運動は、のちにアルコール中毒者匿名更生会(アルコホーリクス・アノニマス、AA)に発展し、今日に至っています。
 どちらも南北戦争の余波で勢いを失うものの、戦争が終結し、とき同じくして大挙して流入してきた非WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の新移民への反発が、ふたたび運動を活発化させます。

 とくに、工業化にともない社会進出していた女性たちが声を上げました。1840年代からの婦人参政権運動と連動して、1874年に女性キリスト教徒禁酒同盟(ウーマンズ・クリスチャン・テンペランス・ユニオン、WCTU)が結成されると、大勢で酒場に押しかけ抗議するサルーン・ヴィジテイション、酒場訪問を各地で繰り広げます。
 なかでも、一人の会員の行動は過激でした。1900年、WCTUのカンザス州の支部長だった彼女は、マサカリで酒場を叩き壊す暴力行為に及んだのです。
 かの有名なハチェット・キャリーイング・キャリー、マサカリかついだキャリーこと、キャリー・ネーションです。 

 ネーションが標的にしたのはもっぱらもぐり酒場でした。店主はお上に訴え出るわけにいかず、かといって、老婦人を相手に力づくで止めさせるわけにもいかずで、彼女が立ち去るまでじっと耐えるしか為すすべはなかったそうです。

 
 ちなみに、深く結びついた禁酒運動と婦人参政権運動でしたが、下図のごとく、州単位で両者の施行の推移は一致していません。
  

 

 デモクラシーが根づいていたはずの東部よりも、意外というべきか、むしろ西部の諸州が先駆けて女性参政権を実現しているのが分かります。
 フロンティアでは女性が少なく厚遇されたこと、男女の隔てなく労働しなければならず、おのずと同権の意識が育ったこと、宗教上のくびきが弱かったこと、それらが総じてリベラルな精神が培われたのが理由に挙げられます。

 ともあれ、全米禁酒法(憲法修正案第18条)と女性参政権(憲法修正案第19条)は、1920年に揃って連邦議会で可決されており、互いに影響を及ぼしたのは確かでしょう。
 

#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法

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