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思ひ出 (2) 死とともに歩む

「でもね。生きているみんなが、幸せで楽しく好きなように生きていればいいのよ。」

夫に先立たれ、一人息子は県外で働き滅多に帰ってこない。
さぞ、寂しい日々をお過ごしなのではないかと思いました。
何だか、広い部屋が物悲しく感じられます。
昔は、あんなに明るい家だったのに・・・と。

ところが、僕の心配は杞憂だったようです。

華道と茶道の教室を自宅で開いていたのですが、免許を必要としない趣味の範囲で楽しみたい方々のためにに、今でも続けられているそうです。
また、ご縁があって中国で日本語を教える機会があり、実は2年ほど中国に行かれていたのだとか。もともと御自身が国文学を専攻していたこと、東京出身ということもあって沖縄では珍しく、非常に綺麗なアクセントを持った標準語を話されることから、外国の方が日本語を学習するには最適な人材だったのでしょう。

いろいろと近況を話されて、最後にお話いただいたのが冒頭のお言葉でした。

当たり前のことですが、死は平等に訪れます。
そして、自分の周囲の人間、近しい人の死、というのもまた。
距離が近ければ近いほど、人間関係が深ければ深いほど、自分にとって深い悲しみを与えます。さらに故人の生前を偲び、同時に後悔と謝罪の念に襲われます。

亡くなった方を思い出すとき、その方の一番素敵な表情が思い浮かびませんか?
その方と過ごした、自分にとって一番幸せだった瞬間の出来事を。
そして、その方と二度と会えないという悲しみに暮れてしまいますよね。
僕は、H君のお父様の死を聞いたとき、同時に他界した父の面影を思い出しました。
そして当時の僕の後悔や無念の気持ちを。

死を実感する瞬間って、どこにあると思いますか?
近しい者の死に直面したときでしょうか、僕は違うと思います。
亡くなってから葬式までの悲しさ、それらが過ぎた後に溢れてくる喪失感も少し違う気がします。

僕が死を本当に実感したのは、火葬場で火葬された棺桶が出てきた瞬間でした。
あれを見たとき、あの時の愕然とした気持ちは今でも忘れることが出来ません。
生きることや死ぬことを哲学的に考えることよりも、もっと衝撃的な事実が目の前にさらされるのですから。そこから自分の中で、本当に死と向き合う時間が始まります。

そして、それをどう自分の中で昇華していくか、なんですよね。

死と向き合うことで身につけたこともあります。
ひとつは、社会で得られる以上に心が強くなり、ときに非情とも思われるような冷静さ。
もうひとつは、死と向かい合っている人への深い優しさです。
相反する感情ですが、何を受け入れ、何を捨て、何を与えるのかを、死と向き合うことで自然と知ってしまったのかもしれません。

そうやって自分が今後どう生きるのかを知るのでしょうね。

H君のお母様は、死を受け入れながら、ご自分が死と歩いていく方法を知ってらっしゃるんでしょう。在りし日のH君のお父様の様子や、闘病中の様子をお話いただいたときの表情は、決して悲しみの表情ではなく、粛々と死を受け入れ、共に歩んでいかれる決意をした、清々しい表情でした。

悲しみや後悔に暮れてしまうのではなく、亡くなった人との時間や感謝の気持ちを胸に秘め、自分がどう生きるかを考えることが大事なんだと、改めて考えさせられました。。。

H君のお父様が集めていたボトルの数々を拝見することはできませんでしたが、素晴らしいお話を伺うことができました。きっと在りし日に、所蔵していたボトルの1つを開け、グラスに注ぎ、至福の時間を過ごされていたのでしょうね。そんな幸せそうなお姿を想像しました。
そして、下戸でビール1杯で酔っ払っていた僕の父。
初めて2人で飲んだとき、きっと僕の父も幸せだったんだろう、と。

拙く長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
明日以降は、またいつもどおりの記事に戻りますよ♪

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