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モルト論 ~その1~

久しぶりの更新です。
ちょっと私自身のテンションを下げる出来事があったのと、仕事が非常に忙しかったので、しばらくモルト関連話題からも離れていました。

さて、本記事のタイトルですが思いついたときに自分のモルトに対する思いをこのタイトルで書いていきます。
今回はちょっと感覚論から離れてボトルの価格、価値について思ったことを書いてみます。

私はそもそも「価格」は「価値」によって決まるもので、「価値」は食品の場合であれば「味」「品質」が全てだと思っています。そこに「安定性」の象徴としてさらに「ブランド」が加わるというイメージです。

しかし、一般的なモルトウィスキー流通では「味」で「価格」が決まるのではなくて、まずボトリングメーカが樽を買い付ける際の基準として「蒸留年」「瓶詰年」「蒸留所」「仕込み樽の種類」あたりの「状態」から「価格」を算出されてそれがそのままボトル価格になっているようです。オフィシャルボトルは値段設定が先にあるので、順当に高熟成年の混ぜ比率で値段を決めているように見えますね。この段階では「味」はボトリングするメーカとしての「特色」や「販売戦略」として使われており、販売後に「ウィスキー好き」が評価した「味」が波状的に広まっていって、業界としての「価値」が決まり、その影響による需要の変動でその時点での価格が決まると。ちょっとクラウド的に評価されているような面がありますね。

評価をする人が「価格」-つまり前述の「蒸留年」「瓶詰年」「蒸留所」「仕込み樽の種類」- をどこまで考慮しているのかは人によって異なると思います。常に完全にブラインドテイスティングで評価していればある程度固定されますが、流通したものを購入して飲むわけですから、「蒸留年」だけを気にする方もいるかも知れませんし、別のボトルの「蒸留年」が近いものと常に比較して評価する方もいるでしょう。また「味」に着目すれば、熟成年(「瓶詰年」-「蒸留年」)が多いからよいうというよいうな意見も賛否が出てくるでしょうし、ボウモアのように蒸溜時期による味の方向性の違いを期待するような好み、また私も公開しているような個人による「感覚」の違いもありますから、この「味」に対して「価格」が妥当かどうかというのはそもそもが各々が判断する心理主義的な代物だということですよね。

もし20年後にもうボトル詰めされてしまっている1960年代、1970年代、1980年代、1990年代のボウモアのそれぞれ16年ものをその時代の「ウィスキー好き」が比較したときに「味」が優先されるのか、「蒸留年」が優先されるのか、「既存の評価」が優先されるのか、「全て統合的に評価」されるのか正確には分かりませんが、価格差として今の1980年代のボトルのように1~2万円程度に収束してしまっているボトルもあるかと思うのです。そして、その状況下で、欧州と同じように1980年代のボウモアがやっぱり一番だ!とその時代の「ウィスキー好き」が言えば一気に需要は逆転して、日本でも1980年代の特徴のあるボウモアが高騰すると。私はそんな時でもぶれずに1990年の美味しいと思った例えば1993ボウモアを私コレ好きだよ?と普通に堂々と飲み続けていられるような、そういう自分の感じた「味」を大事にしていたいと思う方です。もちろん、その頃の年齢で味覚が変化してそっちの「味」が好きになるというのも否定はできませんけれど・・・w

すこしダラダラ意見を書きましたがちょっと整理すると、
 A.一般的なスペック(「蒸留年」「瓶詰年」「蒸留所」「仕込み樽の種類」)による価値
 B.自分が見出す味としての価値
 C.時代の評価(流行、有名人)による価値
 D.ブランド(蒸留所名、ボトラー名、樽選定者)による安定性、期待に付随する価値
のような点で評価が決まる事になるのかな。

最近ではインポータがそこに「需要」が上乗せされた価格もチラホラ見受けられますね。
また、オークションでは逆にそれが前面に出て取引が行われているようですね。

需要が高くなる傾向を考えると、AとBは基本的に変わらない(Bの好みのブレはちょっと置いておいて)価値ですし、個人的な好みの部分なのでこれだけでとあるボトルが高騰することはないと思います。

しかしC、Dを重視する人の度合いは広い範囲での需要変動を生むので一気に天秤が高騰方向に傾きます。ちょっと前までは、このC,Dはマニア向けのモルト本や流行りものの本に載るとか蒸溜所だけいう程度だったのですが、このインターネットというメディアのお陰で、ちょっと影響力のある方がBをブログ等で公開することでCに簡単に属せるようになってきてその参考度合いがまた爆発的に上昇しているので需要に絡んでくるほどに成長しているというのがちょっと面白いところですね。

また、自分が感じる味以外における天秤が傾きやすいもうひとつの理由として、このCの優先順位が異様に高い方が非常に多い傾向があげられると思います。数千PVのサイトとかありますが、1樽のカスクを考えれば、100本~500本のボトルしか存在しないわけですから、そこから日本に来る本数を考えると、そういう人が50~300人程記事を見ただけで購入したいと思えばもう需要は飽和するわけです。

ウィスキーブームということもあり、そもそもこういうブームに乗る方々はC属性の比率が高い傾向にあることは仕方が無いことだとも思います。まあ、私も何本か買いたいものはBとして気に入ったものが多いのですが、情報自体はバーにはあまり行かないので入り口は主にCを参考に入手しているものがほとんどですから、傍目から見たらきっとそういう括りになるのでしょう。

けれども、それでもやはり食品である以上Bはおろそかにしてほしくないというのが私の希望ですし、そういう方向で流行や私の記事を安直に見て買うというのではなく、それらを参考にして自分の好みに近そうなものを選んでもらえるような方向で働きかけられないかなというのが私のモルトに対する想いだと思います。自分自身もありがたがるのは飲んでからで、飲む前は色々思いは馳せますが過大評価、ラベル酔い、価格酔いは表面上のへーという反応でして本心ではあまりしていません。飲んでからその辺りと意識的に結び付けていますね。

反面、その辺りの拘りが「価格」と「C(時代の価値)」だけを見て意見されている方に対してイライラや寂しさを感じさせる原因でもあるのかなと思っています。前述したとおり、自分が感じた「B(味)」対して「見合う」「見合わない」の価値観で意見を述べるのは個々の感覚問題の延長線上ですから大いにどこが好きでどこが嫌いかを論議しても良いのですが、「それ以外の価値」つまり「B(味)」が含まれない部分に過剰反応するのを見ると、ああ自分とは感覚が違うのか・・・と判断するのかな~と。

結局は自分が飲むものである以上は基準は自分の中にしかないわけで、納得して飲んでいるのであればどうこう言う必要はないものですが、私自身の路線はしっかりしておかないといけないなと思い、ちょっとそれを含めて思っている事を形にしてみました。

個人の嗜好品ではありながら、感覚を共有したいというジレンマは本当に考えさせられます。

#雑記

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