ホテルの窓からは、昨日(さくじつ)とはうって変わって、どんよりした雲と、くすんだ灰色の海が見える。波は穏やかだが「ブルース・口笛・女の涙」が似合う、北西の果ての日本海だ。
わたしは、熱いシャワーを素早く浴びて、シェトランドセーターとチノパンに着替えた。絹のショールをぐるぐると首に巻きつけ、トレンチコートの襟を立ててホテルの部屋を出た。良さんはまだ、ベッドの中だ。
海まではごくわずかな距離である。民家の庭先を抜け、コンクリートの堤防に出た。トタン小屋の前には、荒縄のネットでくるまれた石やガラス玉や、青いペンキが風化した船具が放置されている。潮に晒されたブルーほど、やさしく美しい「青」はない。三陸の小さな港町で、漁師の娘として生まれ育った私にとって、それはまさに原風景の再現であり、「わたし」というものを形成している、すべてのコアで有り得る。鼻の奥がツンとなって、安堵して身を委ねられる温かさとともに、あれからずいぶん遠い処へ来てしまって、たぶんもう「あの場所」に属すことは在り得ないのだという決定的な想いが、代わる代わる小さな波となって、わたしの胸に打ち寄せてくる。
ふっと空を仰ぎ、堤防に寄りかかって、スキットルから熱い液体を胃に流し込んだ。先ほどまで余市川の上にあった、薄い灰色の羽毛のような雲が、ゆっくりとこちらへ移動し、いまは、わたしの数m先まで近づいてきて雪を降らせている。心地よいシャワーのように、サァーと軽い音をたて、斜めに降り注いでいる。時折、日本海からの潮風が雪を舞い散らし、飛沫がとどいて顔を濡らしていく。もう少しで、わたしは身体ごと完全に、吹雪の中に呑み込まれるのだ。あらためてコートの前を掻き合わせ、ウヰスキーを煽った。
砂浜の外れには、放たれた赤い首輪の黒い大きな犬が、波打ち際を彷徨い歩いている。岩陰からは、白い子犬がかけ寄ってきた。わたしは子犬の顔をすっぽりと手で包み込んで愛撫してやる。黒い大きな犬には、悪いけどちょっと近づいて欲しくないな、と想いながら。
波打ち際にそって、犬と飼い主の足跡が残されていた。引き潮となったいま、わたしはさらに踏み込んで、波に洗われたばかりの砂浜を歩くことができる。そういえば、人間はなんだか、好んで境界線のキワを歩きたがるものだ。波打ち際もしかり、岬の先端、船のへさき、崖っぷち、切立った山、タワーのてっぺん。そこに見つけられるものは、いつだって壮大すぎて、手が届かないものばかりなのに。
竹鶴の妻リタが、この砂浜に来たことはあっただろうか・・・?波が大きく砕けた。(きっと・・・)わたしの中を、熱い確信が突き抜ける。彼女は幾度も、人影のないこの砂浜にたたずみ、遠い故郷に想いを馳せたに違いないのだ。手に触れる海水はその瞬間、時差も、距離も、隔てているものすべてを呑み込んだはずである。この海は紛れも無く、故郷の海まで続いているのだから。
余市川が海に合流するあたりで、コンクリートの足場は海に向けて伸びている。先端まで行って、余市湾全体を見渡してみた。ここからは、余市湾のひとつ先の忍路湾とポンマイ崎も、パノラマで視界に入る。すでに雪雲は彼方へ移動し、余市湾は紺緑色を取り戻しつつある。わたしは口笛で『オールド・ラング・サイン』を吹いた。どうか、リタの魂に届くようにと。
Should auld acquaintance be forgot, And never brought to min”……..
昔馴染みが忘れられていいものか、決して想いだされぬままに。
昔馴染みが忘れられていいものか、遠い昔の日々が。
遠い昔のため、君よ、遠い昔のため、
我ら旧情の杯を上げよう、遠い昔のために。
我らともに丘の斜面を駈けたもの、腕いっぱいに雛菊を摘んで。
だが、我らいつか旅路にさまよい疲れた、遠い昔のあの時以来。
我らともに小川に魚獲ったもの、陽が昇ってから昼の御飯となるまで。
だが、我らのあいだに大きな海が吼えたてた、遠い昔のあの時以来。
さあ、手を握ろう、我が信ずる友よ、さあ、手を。
そして我ら旧情の杯を上げよう、遠い昔のために。
…………………………………………………………………………………………………………………………
『オールド・ラング・サイン』(今は懐しその昔) スコットランド民謡
Robert Burnssas(ロバート・バーンズ)作詩 邦題は『蛍の光』
『Robert Burnssas』 スコットランドの国民詩人。
恋愛とウヰスキーと詩を愛した熱血漢。
スコットランド方言で書かれた詩は、今でもスコットランドの人々に熱烈に愛されている。