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イースト・ロッホェッド

 エジンバラから『M8』を西へ走る。夕方のラッシュに巻き込まれたため、グラスゴー郊外まで3時間半かかった。混んでなければ2時間半ぐらいらしい。午後7時30分、イースト・ロッホェッド25エーカーのファームを廻り込んで、建物の前に車を止める。

 ポーチに人影はない。玄関のドアが全開になっているので、中に入って声を掛けてみるが気配がしない。無断でうろつくのも失礼なので、入り口のベンチに腰掛け、ふたりで「しりとり」をしていると、1台の車が勢いよく入ってきて、慣れた感覚でぴたっと止まった。わたしたちは立ち上がり、家人を迎える姿勢を整えた。長身の青年が車から降りて来た。
「はじめまして。日本から来ました、佐々木・・・」
「郵便でーす。ジャネットさんに渡しといて下さいね」
良さんが差し出した右手に、大小の郵便物が手渡された。そして呆気にとられているをわたしたちを残し、車は勢いよく去って行ってしまった。
 おつかいを頼まれたのだから、家宅侵入する大義名分は出来た。
「ジャネットさ~ん。いないんですか~。失礼しますよぉ~」
無断欠勤で一週間も会社を休んでいる同僚を訪ねるような気分である。
 サスペンスだと、ドアの鍵はかかってなくて、中で人が倒れちゃってたりして・・・って・・・。恐る恐る廊下奥のキッチンのドアを開いた。
(ぎゃああああ!!!)そこにはハサミを手にして、当の本人が立っていた。
「ははは、はーい!は、はじめまして、ジャネット。わたしたちは日本から来ました佐々木です。これ。郵便です。預かっちゃいました」
心臓の動悸を悟られないよう、務めてフレンドリーに挨拶をすると
ジャネットはカゴとハサミをテーブルに置き、手を洗って、手に汗握ったままのわたしたちの両手を、しっかり握った。
「あら、まあ。ありがとう!はるばる、ウエルカムね。だいぶ待ったんじゃなくて?裏のハーブ畑にいたものだから、気づかなかったわ・・・。ごめんなさい。さあ、荷物を入れて。お部屋に案内するわね」
 
 通された部屋は二階の角にあり、ジャネットが自慢していたとおり、遠近法で描かれた風景画のように、地平線の彼方まで、それはそれはスペクタクルなビュウであった。夜の帳に包まれてゆく前の、低い位置の西日が放つ煌煌とした光が景色の隅々にまで届いて、小さなディテールまで、はっきりと見て取れる、身に沁みる美しさである。さらに、25エーカーの広大なグリーンは、お部屋の、ローラア・シュレイ(イギリスを代表するデザイナー。婦人服、子供服の他、インテリア関連のファブリックも手掛ける)のペパーミントグリーンを基調とした壁紙に引き継がれ、清々しいグラデーションとなっているのだ。感嘆の声しか出ないでいるわたしたちに、ジャネットは何度も満足げに頷いた。

「ところで、あなたがた、夕食は済ませたの?」
「おぉ、ジャネット。実はわたしたち、お腹ペコペコなの。ダメでもともとで、お願いしてみようと、話していたところなの」
「そうね、いまからだと、フルディナーは難しいから、プチディナーでもいい?」(フルだと食べきれないはずである。プチでちょうどの量であろう、いい、いい)
「プリーズ」わたしたちはふたり揃って、キリストに祈りを奉げるマリアのように、指を組んで静々と頭を下げた。
「OK!(ウインク)一時間後くらいに、ダイニングに降りてらっしゃい」
 
 憧れのピクチャーウインドウ前のダイニングテーブルに、庭に望むように、ディナーの席がセッティングされていた。けして、高価で煌びやかな設(しつら)え、というのではない。物を長期に亘って大切に扱った結果もたらされる、手入れの行き届いた心地好さなのだ。家具はどれもみな年季が入っているけれど、磨きこまれており、埃がついた物などなにひとつない。ランプも銀の写真立ても、ピアノの上も、ぴかぴかである。(チェックの厳しいお姑さんだって文句のつけようがないだろう)お花だって、ひとつひとつの花の咲き具合と、葉の向き、色の加減を踏まえて、丁寧に活けられている。
 外は暗闇。わたしたちのテーブルは暖かいオレンジ色の照明にぼうっと浮かび上がった「能」の舞台のように、期待と緊張に満ちた静謐さの中にあった。
 プチディナーのメニュウは、庭から摘んできたいろいろな葉っぱと、ハーブと、お花のサラダ、スコティッシュサーモンのムニエル、フルーツカクテル。合わせて、ジャネット一押しの、無農薬の赤ワインを薦められた。
 無農薬ワインというと、「無農薬」へのこだわりにばかり重点が置かれ、味は二の次というイメージが強い。そもそも、緑の葉っぱがメインで、フランボワーズビネガーと、塩、オイルのみでいただくサラダに、ワインを合わせるというのは、むずかしいマリアージュ(組み合わせ)なのだ。お酢の酸は、ワインの繊細な味わいを壊してしまうものであるし、生の葉っぱが持つアクだって、難しい課題である。
 しかしわたしたちは、イースト・ロッホェッドのテーブルで、目から鱗のマリーアージュを体験することとなった。美しく健康的な土壌で育てられた葉っぱは、アクがあるどころか、ふわっとやさしくほろ甘い。フランボワーズビネガーは数滴に抑えられ、ギリギリのバランスで葉っぱとワインの香りを繋いでいる。そして、改めてワインは農産物なのだと認識されられるほど、ジュースの良さをそのままお酒に移行させた、果実味たっぷりで、ピュアで、素朴で、余計な工作の無いワイン。ボゥル一杯のサラダでをいただくだけで、ワインボトルの2/3が空いてしまった。
 軽くスモークされたサーモンは、表面はパリッと中はジューシーで、見た目のボリュウムとはうらはらに、すんなりとお腹に収まるものであった。

 傍らでサーブをするジャネットの話では、ファームは、春にはガーデンウエディングの会場となり、夏はキャンプをする家族や、合宿をする学生で賑わい、秋には狩猟のためのベースとなるのだという。
「わたしは何処にも出かけないけれど、世界中から、いろいろなひとがいらっしゃって、楽しい出会いがあるから、しあわせよ」
 それではと、わたしは、旅のお供の犬のぬいぐるみ、「パグ」をジャネットに紹介した。「パグ」は、3cm四方のポシェットを斜めがけしていて、その中には、彼の宝物、『紙に包まれた七つの仁丹』が入っている。
「オゥ!シルバー・パール!」笑い転げる彼女に
「それ、食べられるのよ。」とそそのかすと、一粒つまんで口に含んだジャネットは、やられたというふうに何度も目をぱちくりしばたき、「パグ」の頭を、ちょんとつついて
「なかなか・・・シブイ味ね」とコメントした。

 生活するということは、仕事に追われ、家事の手抜きをし、時間が無いからと、ジャンクでインスタントな食事をすることではないはずである。ストレスを物欲と大量消費に求めて、それで、何が豊かな国、日本だろうか?豊かさは所有物の数ではない。豊かさとは、ジャネットのように、時間を大切にし、物を大切にし、人と人との絆を大切にして、いかに日常の雑多な事柄を愛しめるハートを持っているか、では無いだろうか。

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