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アメリカン・ウイスキーの歴史 3

 
 金よ、出て行け!
 金が走り去り逃げてしまい無くなったら、
 私は古い大樽から火酒を出してきてまたもや金を手に入れよう!
 ワインのかすか、ビールのかすでも残るうちは、私は金に不自由しない!
 くもの巣からでも、ごみの中からでも私は金を作ってみせよう。
 金は私のもの!
 卵の殻に羊毛を生やしたり、骨の髄から青草を育てたりして、
 金が舞い込んでくるようにしてごらんにいれよう! 

 
「悪魔は愚か者」  ベン・ジョンソン
 
「金メッキ時代」 マーク・トウェイン、C・D・ウォーナー著 那須頼雅訳 山口書店
 
 ギルデッド・エイジ、金メッキ時代 、あるいは金ぴか時代とは、南北戦争が終結した1965年から、恐慌に見舞われる1893年までのおよそ4半世紀を指します。
 空前の好景気に沸き、カボット、ドレクセルといった名家や、石油王ジョン・ロックフェラー、鋼鉄王アンドリュー・カーネギー、鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルトら新興の 大富豪が財を成して、ゴールデン・エイジ、黄金時代と称えられたいっぽうで、拝金主義が蔓延した世相に皮肉をこめて、マーク・トウェインが名づけました。  

 

 19世紀の後半、国内の争乱を収めたアメリカは著しい成長を遂げ、国力でついに英国と肩を並べます。鉄鋼の生産高で例えると、1867年の2万トンが1895年には600万トンへと、30年足らずでじつに300倍に達しました。
 鉄鋼は鉄道のレールに形を変え、全国にあまねく敷設されていきます(1882年のレール使用量は195万トン)。総 荘そ 延長は同じく30年で5.7倍に伸びました。この鉄道建設に投入された巨額の補助金のおこぼれに与ろうと、あらゆる立場、身分の連中が砂糖にたかるアリのごとく群がります。
 
 英国の思想家のハーバート・スペンサーが説いた、「適者生存」の原理のソーシャル・ダーヴィニズムを信奉する当時の資本家たちにとって、政治家と役人を抱きこみ見返りを求めることは当然の経済活動でした。連邦上院議員は各州議会が指名していたため、自由選挙で選出された議員より特権意識が強かったのも、政界と財界の癒着に拍車をかけました。  

 

 

 1869年、第18代大統領にユリシーズ・S・グラント が就任すると、いよいよ不正がはびこります。南北戦争の英雄で実直な人柄のグラントでしたが、政治家としては才智に欠け、取り巻きたちを盲信していたのです。 

 1873年、大陸横断鉄道のユニオン・パシフィック鉄道を巡るスキャンダルが発覚したクレディ・モビリエ事件では、副大統領のスカイラー・コルファクスにまで嫌疑が及びます。そして、2年後にふたたび世間を揺るがす疑獄事件がおきました。それがウイスキー・リング事件、 ウイスキー汚職です。
 
 シャーマン将軍麾下の旅団長として南北戦争を戦った元軍人、36歳の “ジェネラル” ジョン・マクドナルドが、1868年に内国税局の監査官の職に就きました。翌年、ミズーリ州の局長に任命され、地元の上院議員や共和党の有力者を通じて、グラント大統領の信頼を得ます。
 1872年にグラントが再選されると、マクドナルドはホワイトハウスに近い立場を利用して、蒸留酒税の横領を企みシンジケートを組織します。 

 

 

 ウイスキー・リングと呼ばれたシンジケートは、マクドナルドの地盤のセントルイスを中心に、シカゴ、ミルウォーキー、シンシナティ、ニューオーリンズ、ピオリアと枝葉を拡げていきます。その手口は、蒸留所、卸商、酒屋、そして、現場の検査官から官僚までもが結託して、ウイスキーの出荷記録の改ざんや酒税印紙を偽造する大がかりなもので、マクドナルドとともに一味を率いた首謀者は、大統領の側近中の側近、秘書のオービル・E・バブコックでした。  

 

 社会全体がモラルを失っていたのに加え、地方によっては南北戦争後、物品税の税率が8倍にはね上がったところもあり、ウイスキー業者の納税意欲が低下していたこともシンジケートを肥大化させる一因になりました。また、共和党の裏金作りも目的だったらしく、犯罪に気づきながらも傍観した政府関係者もいました。
 
 1875年5月、財務長官のベンジャミン・B・ブリストウが、司法長官のエドワーズ・ピアポントと協力して、かねてからおとり捜査で内偵を進めていたセントルイスの蒸留所を摘発したのをきっかけに、政権の中枢を巻きこんだ利権の構造が明るみにでます。 

 大統領は徹底した究明を命じ、少なくとも350万ドルを脱税したかどで、238人(うち86人は役人)が告発されました。被告のなかには、マクドナルドとバブコック以外に2人の政府高官も含まれていました。
 しかし、事件はうやむやのまま幕引きされます。マクドナルドは3年の実刑と5千ドルの罰金を科せられたものの(減刑されて1年半で出所している)、バブコックは司法取引で無罪となり、ほかに有罪の判決を下された者も半分に満たない110人に留まりました。 次期大統領職を窺っていたブリストウの思惑が働いたともいわれています。
 ともあれ、主犯の2人の後半生は大きく異なりました。マクドナルドはウイスキー・リングについての回顧録を著すなどして、80年の長寿を全うしたのに対して、バブコックは釈放からわずか1年後の1877年、移住先のフロリダで溺死しています。48歳でした。 
 

 さて、グラントの施政下の不祥事はまだ終わりませんでした。1876年、陸軍長官のウィリアム・W・ベルナップが、部下から賄賂を受け取り、便宜を図っていた疑いで辞任に追いこまれます。

 金権政治が横行したグラント大統領の2期にわたる任期は、ドレッドフル・ディケイド、醜悪な10年と酷評され、グラントはいまもって史上もっとも無能な大統領という汚名に甘んじています。 
 
 今回はここまでです。来週は、「フロンティアの消失」、西部開拓時代の終焉と、高まりつつあった禁酒運動について取り上げます。 
 

#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法

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