ASLの思惑どおり、第1次世界大戦中の1914年から1918年にかけて、禁酒州が一気に増えました(23州。合計で32州)。
禁酒法を施行していない州でも、郡単位では飲酒を禁じており、例えば、ミズーリ州の場合、州議会が禁酒法を決議したのは、憲法修正案第18条に批准後の1920年になってからでしたが、1914年にはすでに州内の大半を禁酒郡(ドライ・カウンティ)が占めています。
また、新移民が多かった州と禁酒法に消極的だった州は、以下の図表のごとく符合しています。彼らの反対が州の総意に反映されたと考えるべきでしょう。ウイスキーのおもな産地のペンシルヴァニアとケンタッキー州も同様です。
いずれにせよ、ことここに至って、禁酒派と反禁酒派の争いは大勢が決しつつありました。
1917年の4月にアメリカが参戦すると、戦時下の倹約がいちだんと叫ばれるようになりました。とくに、「戦争遂行のために重要かつ必要な労働力が不足しているときに、国家は酒類のごとき無用なものの製造への労働力の雇用をなにゆえに許すべきであるのか」と酒造業界が非難の矢面に立たされるなか、6月にシェパード上院議員がふたたび憲法修正案を上程します。それが「憲法修正案第18条」です。
法案は以下の3項から成っていました。
第1節
本条の批准より1年後、合衆国およびその管轄権に服するすべての領土において、飲用を目的とする、酒精飲料を製造、販売あるいは運搬し、あるいはその輸入もしくは輸出を行うことを禁止する
第2節
連邦議会と幾つかの州とは適当な立法により本条を施行する共同の権限を有する
第3節
本条は合衆国議会から各州に提議した日より7年以内に、憲法の規定により憲法の改正に必要な諸州立法部の批准を得られなければ、その効力は生じないものとする
すなわち、本案は連邦議会での承認後、7年以内に州の4分の3の合意を取りつけたうえで(第3節)、1年以内に実施する(第1節)という文意で、細則を定めた執行法にあたる第2節は白紙の状態でした。
発効までに1年の猶予を設け、第2節が曖昧なままでおかれたのは、州の独立性を保障し、交渉の余地を残すことで反禁酒派の論難を避けるためでした。この譲歩が受け入れられ、修正案は13時間の審議のみで憲法修正に必要な3分の2の賛成を得て、8月26日に上院を通過します。
1918年の11月に第1次世界大戦が休戦しても流れが止まることはなく、同月に可決された「戦時禁酒法」は、1919年5月1日以降、アルコール度数が2.75度を超える醸造酒の製造を禁止し、さらに、7月1日以降は酒類の販売も全面的に禁止する、時限立法とはいえ極めて厳しいものでした。9月に先立って発効していた、蒸留酒の製造を制限する「レヴァー食料燃料規制法」と併せて、全米禁酒法の施行以前に、もはや全土で飲酒が禁じられたのも同然だったわけです。
さて、修正案は12月17日に下院でも採択され、翌日には各州議会に送付されました。
そして、1918年1月8日のミシシッピー州を皮切りに次つぎと批准されていき、1年後の1919年1月16日、ネブラスカ州をもって早くも36州に達し、成立の条件の4分の3を超えました(準州のアラスカとハワイ州は定数に含まれない)。
なお、コネティカットとロード・アイランド州は最後まで批准せず、禁酒法も執行していません。
いっぽうで、ASLを中心に第2節が起草されていました。修正案が効力を得られるかどうかは第2節の文案次第で、反禁酒派との妥協点を探りながらの作業でした。その不完全さが、のちのち悪法と見なされる結果を招くものの、ともあれ、ミネソタ州選出の上院議員、アンドリュー・ヴォルステッドの手により、1919年5月に議会にかけられます。いわゆる「ヴォルステッド法」です。
今回はここまでです。来週は、全米禁酒法の骨子となるヴォルステッド法の中身(おもに飲用アルコールに関する第2章)について説明します。
#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法