ただ、原料が輸入品のラム酒は高価なので、庶民のあいだでは自家醸造のアップルサイダーやピーチブランデーも広く親しまれていました。
新大陸を巡る英仏の争い、いわゆるフレンチ・アンド・インディアン戦争が英国の勝利に終わった1763年以降、スコットランドとアイルランドから、ウイスキーの蒸留技術を身につけた移民が大挙して海を渡ってきます。彼らはペンシルヴァニアやヴァージニア州で、おもにライ麦を原料にウイスキーを造り始めました。
内陸部ではラム酒が入手しづらかったことと、穀物そのものよりも、ウイスキーに加工したほうが保存がきき運搬も容易く、6倍もの収入が得られたうえに無税なのが理由でした。やがて、万能薬として、また、地方では通貨の代用にされるほど、ウイスキーは生活に欠かせない必需品になります。ペンシルヴァニア州では、30軒に1軒の割合で農家が蒸留器を持っていました。おそらく、コミュニティで共用していたと考えられます。
それらは、ウイスキーとは名ばかりの粗雑なホワイトスピリッツだったでしょうが、1776年の建国前後には、すでに商品と見なされ、市場が成り立っていたわけです。
ちなみに、ウイスキー造りに携わったとされる人物の名前が明らかな、アメリカにおける最古の記録のひとつは、ケンタッキー州で発行されていた新聞の1789年6月28日付けの紙面に掲載された、ダニエル・スチュアートなる人物が中古の蒸留器を売りに出したさいの広告です。このエピソードについては、同名のバーボンを紹介する回で詳述します。
さて、独立後まもない1791年に、「蒸留酒類に対する物品税」が発布されました。
独立戦争の戦費で莫大な負債を抱えていた政府は、新たな財源を確保しようと、ワシントン大統領のもと財務長官のアレクサンダー・ハミルトンが陣頭に立って、ウイスキーへの大幅な課税を断行したのです。その税額は、蒸留器には容量1ガロンあたり60セント、蒸留したウイスキーには同じく9セントに上りました。 上物のウイスキーでも1ガロン50セントが相場でしたから、相当な負担です。
参考までに、蒸留酒税を導入した1791年から現在までの税率の推移を下表に挙げておきます。なお、全米禁酒法時代の薬用ウイスキーは、1ガロンあたり6ドル40セントが課税されています。
独立運動の発端は、英国が植民地に強いた重商主義への反発でした。民衆から見れば新政府も、パトリック・ヘンリーの「自由か死か」の言葉を旗印に、多大な犠牲を払ってせっかく勝ち取った自由を反故にしようとする、前車の轍を踏む圧政者にほかなりません。当然ながら激しく抵抗し、1794年のペンシルヴァニア州西部での蜂起をきっかけに、誕生したばかりの国家を揺るがす暴動へと、燎原の火のごとく拡がってゆきます。ウイスキー反乱(ウイスキー・レボリューション、もしくはウイスキー・リベリオン)と呼ばれる内乱です。
独立戦争をも上回る1万3千人の軍隊の動員によってほどなく鎮圧され、結果的には政府にとって地盤を固める好機に転じたものの、数万人もの農民が行政の力の及ばない西部へ逃れました。東部は先んじた入植者に寸土もなく占められ、遅れてきた者たちは、さらなるフロンティアを目指さざるをえなかった背景もあります(独立13州、およびメイン、ヴァーモント両州の人口は、18世紀末には300万人に達していた。うち、黒人奴隷は70万人)。
そして、アパラチア山脈を越えてケンタッキー、テネシー州の一帯に辿り着いたとき、彼らはウイスキー造りに適した水、ライムストーン・ウォーターに出会ったのでした。
現在もケンタッキー州がバーボンのおもな産地なのは、ミシシッピー、オハイオ川が育んだ肥沃な大地とともに、ライムストーン・ウォーターの存在は欠かせません。
このころから、収穫しやすいトウモロコシがウイスキーの原料に使われるようになります。
余談ながら、ワシントン大統領は蒸留酒税を施行するいっぽうで、農民にウイスキー造りを奨励し、みずからもヴァージニア州マウントヴァーノンのプランテーションに蒸留所を所有していました。
こちらのエピソードについても、ブレンディッド(ライ)・ウイスキーのマウントヴァーノンとバーボンのジョージ・ワシントンを紹介する回で詳述しましょう。
なお、2007年、同地に記念館を兼ねた蒸留所が再建されています。
#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法