先週、自動更新の日付の設定をまるまる一カ月間違って、フォア・ローゼズの記事を上げてしまいました。いったん公開した以上、削除するわけにもいかないので、代わりに「アメリカン・ウイスキーの歴史」は1回休ませていただきました。
1492年にコロンブスが西インド諸島に上陸したときから、先住民と白人の関係は悲劇的なものでした。スペイン人がヒスパニオラと名づけたサントドミンゴ島では、わずか半世紀のあいだに、奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人も含めて、30万人が殺されています。北米のアメリカ・インディアンは中南米のインディオより頑強に抵抗したものの、白人は武力と懐柔策を使い分け、じわじわと土地を侵食していきました。
第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンが発布した、民族浄化を目的とした「インディアン強制移住法」で生存権を制限されたインディアンにとって、1803年のルイジアナ購入と、1865年の大陸横断鉄道の開通で勢いづいた西漸運動は、それまで以上に過酷な運命が突きつけられることを意味しました。
痩せた居留地への移住を強いられ、そこで鉱脈が発見されると、さらなる荒地へと追いやられる理不尽が繰り返されたのです。
そして、1890年、サウス・ダコタ州で合衆国陸軍が無抵抗のスー族の一団を殺戮した「ウンデッド・ニーの虐殺」を最後に、アメリカに自由な土地は1エーカーたりとも残されていない(インディアンの土地は奪い尽くした)という「フロンティアの消失」が宣言され、西部開拓時代は終焉を迎えます。
ちなみに、「ウンデッド・ニーの虐殺」を象徴する遺品の「ゴースト・ダンスの上着」は、1999年にスー族に返還されるまで、遠くグラスゴーの博物館に展示されていました。
インディアンとの交易で、ウイスキーはもっとも有益な商品でした。酒の文化をもたず、免疫もなかった彼らはたちまち耽溺したのです。依存させて土地を手放すよう仕向けた白人も多く、明治の日本で人徳を敬われたベンジャミン・フランクリンですら、「ラム酒こそは、蛮人どもを根絶やしにし、農耕の民に土地をもたらす神の代理人」と述べています。キリスト教徒の収奪を正当化した、いわゆる「明白なる天命」です(ただ、フランクリンは自分たちの側に正義がないことも率直に認めている)。
反対に、ウイスキーが不満を煽ることを恐れ、インディアンへの販売を禁止したマサチューセッツ、オクラホマといった州もありました。
いまなお、インディアン・テリトリーにおける酒毒による疾病の罹患率、事故と犯罪の発生率は全米平均の2倍から4倍に上り、彼らが貧困から抜け出せない主因になっています。
「ウイスキー反乱」と「ウイスキー・リング事件」、19世紀末のウイスキー市場の寡占化に絡んだ「ウイスキー・トラスト事件」、次回のテーマの「全米禁酒法」と、アメリカ史において、ウイスキーは心ならずもたびたび悪役を演じていますが、このインディアンが蒙った悪影響ほど、のちのちまで禍根を残したエピソードはないでしょう。
迫害の過去をさすがに恥じたのか、あるいは飲酒を助長すると危惧したのか、インディアンの英雄にちなんだネーミングのバーボンはほぼ皆無で、日本の市場向けに企画されたブランド、レジェンド・オブ・ザ・ワイルドウェストのラインナップでジェロニモが発売されたほかに見当たりません(もちろん、「ケンタッキー」などのインディアンの言葉に由来する地名は例外)。
今回は以上です。来週から、いよいよ全米禁酒法を取り上げます。
#アメリカン・ウイスキーの歴史と製法