何かを書きたいけれど、何をどう書こうかと悩んで日々はどんどん過ぎていた。
2011年3月11日14時46分 オフィスで普通に仕事をしていた。
ネットで地震速報。いつものことだろうとタカをくくっていた。
仙台がひどく揺れたらしい。友人たちは大丈夫だろうか?恩師たちは大丈夫だろうか?
電話はだめだろうから、大学に残った友人にメールをしてみた。
しばらくすると、相手側のサーバーが受信しないといってメールが戻ってきた。
心臓が速く鼓動するのがわかった。
やむなく携帯から電話してみた。案の定、携帯も固定電話も通じない。
友人たちも恩師も消息不明。
ネットで見ていても岩手、宮城、福島の情報がなかなか入ってこない。
よりひどいダメージがあったと直感した。
鼓動はもっと速くなった。
時間が経つにつれ、少しずつ仙台や他の地域のひどい様子が入るようになってきた。
夕方には、全く仕事をする気力がなくなってすぐに帰宅した。
1995年1月17日5時47分。
あの時、神戸市東灘区の国道2号線の横断歩道にいた。
青信号に変わったとき、後ろから大きな車がやってくるようなごーっと大きな音がして振り返った。でも、立っていられなかった。なぜ横断歩道に倒れこんだのか自分が理解できなかった。
国道にまで倒れこんできた建物が土煙をあげ、電線がバチバチと音を立てていた。
生まれてはじめて119番したけれど件数が多すぎて対応できないと言われ、目にした沢山の消火されない火事。
すぐにそして何度もやってくる余震。立ちつくす人々。
忘れてはいけない日だけれど、思い出すとつらいから、思い出さないようにしていた。そんな自分だったけれど、この地震と津波は否応なく16年前の出来事を思い出させ、16年前と現在のテレビが伝える様子が重なってしまう。あの阪神・淡路大震災には津波がなかっただけましだったのかもしれないと思えるようにもなった。
そして、気がつくとテレビの津波の映像に早く逃げてと大きな声をだしている自分がいた。
わたしの友人や恩師は無事だった。幸いなことに、と書こうとして書けなかった。それは、好きだった仙台のバーとバーテンダーの方々の安否がまだわからないから。ぜひ、無事であってほしい。
#徒然日記