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【7】シングルモルトマニアックス

  

【7】シングルモルトマニアックス


A
WHISKY DRINKER


##おそらくこれまでの記事の中でも一番難解だと思いますので、ぜひ余裕のある時に御覧ください。

含蓄のある講義ですよね。

まだまだ日本でも、世界的にもこれらの研究成果が浸透しているとは言い難いと思いますが、私個人としては「脳を知り、人間を知ることで、価値観の再構築をしよう」というのは21世紀前半における人類の一つの大きなテーマだと思っています。

ダニエル・カーネマン氏の最新講義には感動しました。彼は認知学や行動経済学の分野で多大な功績を残していて、フレームワーク(枠組みづくり)の観点からも「脳」研究のテーマとして多く採用されています。

「経験の自己(実際に感覚すること)」

「記憶の自己(感覚したことをどのように解釈するか、経験をどのように記憶するかということ)」

には大きな違いがあって、「記憶の自己」が主導権を握っているという
考え方です。

非常に偉大な考え方であって、人生のあらゆる場面を包括した話であるのですが、ウイスキーの視点で置き換えてみると、

ウイスキーを感覚する(記憶によって予見されている) → どのような味であるかを過去の記憶と照らし合わせる(感情または情動が含まれる)

                                  
→ そのウイスキーをどのようなものであったか記憶する(感情または情動が含まれる)

これらの過程を「分けて」捉えることと、「合わせて」考えること、その両方が大事なのであって、こういった考え方をしないと「本質はいくら考えてもつかめない」と。

我々が感覚を「~のよう」と言葉に置き換えて捉えた(解釈した)瞬間に、そこには記憶が介在してしまう
ことを知らずには、いくら価値観の話をしても、従来の哲学のように、どんどん現実離れしてしまいます。

(価値判断の正確性は)予めこういう特性があることを知っているか否かということ、前提として踏まえているかどうかということ
にかかっているのです。

誰しも経験したことがあるのではないでしょうか。建前と本音という部分とか、価値観を巡る話や、物事の一面性を切り取って評価されるようなこと、「その意見は記憶の自己の意見」であるけれど、変更可能なのか、不可なのか、周囲の状況に流されるのか。。。など。

混同していては、堂々巡りか、結果に信憑性を見い出せないことに繋がってしまいます。

もう一つ大事な点として、

感覚する 理解する 記憶する

これらの3ステージのうち、理解することと記憶することは、同時にも行われている
ということが挙げられます。

スプリングバンクのイチゴジャムフレーバーに、従来は気付かなかったけれど、最近は弱くても気づくようになったとします。

これは感覚が研ぎ澄まされたからでしょうか?

これは、記憶が先導して、イチゴジャムの要素を優先的に捉えるように感覚器に働きかけたとも考えられるのです。


閑話休題

 

ちょっとややこしくなってきましたので、ここで話を変えます。

脳研究のフレームワークとしても功績を残す「行動経済学」「認知学」ですが、ここでもう少し具体的事例をご紹介させてください。

引用:バリー・シュワルツ「なぜ選ぶたびに後悔するのか」他

ダニエル・カーネマン氏らが唱えた、ピークエンドの法則

過去の経験のうれしさ、不快さに関する記憶は、ほぼ全面的に、つぎのふたつの要因で決まる。
ピーク(最高の瞬間あるいは最悪の瞬間)にどう感じたかと、終わったときどう感じたかだ。

これはカーネマンの「ピーク・エンドの法則」と呼ばれている法則で、わたしたちはこの法則にしたがって経験を一括りにし、あとでその総括にもとづいて、あのときはああだったと思い出す。

そしてこの総括が、おなじ経験をもういちどしたいか、したくないかの判断を左右する。経験の過程全体で、うれしさと不快さの割合がどの程度だったかとか、それがどれくらいつづいたかといった要因は、記憶にはほとんど影響しない。

例えば

・苦痛の大きさが10で 時間が5分経過し、終了時の苦痛の大きさが8の場合、仮に苦痛の量を58とします。
苦痛の大きさが10で 時間が10分経過し、終了時の苦痛の大きさが3だった場合、仮に苦痛の量を103とします。

苦痛の時間が長く、全体の苦痛の量が大きくても、最後が3だった場合、最後の苦痛が8だった場合より、よりよい記憶が残る。

・被験者のあるグループは、過去一年間に五万ドルから百万ドルの宝くじに当たったひとで構成され、別のグループは事故に遭って下半身不随ないし四肢麻痺になったひとで構成されている。

意外ではないが、宝くじ当選者グループは、身体が麻痺したひとのグループにくらべて、幸福度の自己評価が高かった。

だが意外なことに、宝くじ当選者グループは、全体の平均にくらべて、とくに幸福ではなかった。

さらに意外なことに、事故に遭ったひとのグループは、全体の平均に比べれば多少劣るものの、それでも自分は幸せだと評価していた。

宝くじ当選者に、当たった直後に幸福度を尋ねたら、まずまちがいなく五点満点を突き抜けてスケールが届かない辺りだったろう。
事故に遭ったひとに、身体が動かなくなった直後に幸福度を尋ねたら、スケールの底の底だったろう。

だが時間がたつと、宝くじにあたったひとも事故に遭ったひとも、新たな環境に慣れていく。双方とも「快楽指数」が収斂していって、全体の平均近くまで戻っていく。

わたしはなにも、主観的な経験に関するかぎり、宝くじに当たるのも、事故に遭って身体が麻痺するのも、長い目で見れば変わりはないといいたいわけではない。

ただ、そのちがいは、ふつうに考えられているより、ずっと小さい。人生を一変させるそうした出来事が起こった直後に、本人が想像していたよりも、ずっと小さくなる。

選択行動に関しては、人は大きく「マキシマイザー」と「サティスファイサー」に分けられる

最高でなければだめというなら、あなたは「マキシマイザー(最大化人間)」だ。
マキシマイザーは、買い物や決断をするたびに、それが考えられるかぎり最高だと確かめないではいられない。

もうひとつの選択肢として「サティスファイサー」になるという方法がある。
サティスファイ(満足)とは、まずまずいいものでよしとして、どこかにもっといいものがあるかもしれない、とは考えないことだ。

サティスファイサーは、自分の中に基準なり原則をもっている。
そうした基準にかなう品がみつかったら、みつかった時点で、探すのをやめる。

マキシマイザーは自分の目標を、なにがなんでも達成しようとする。
膨大な時間と労力を注ぎ込んで、探し回り、ラベルを読み、消費者雑誌をチェックして、新製品と聞けば試してみる。

しかも選択したあとで、時間がなくて調べられなかった別のオプションの存在にさいなまれる。
おかげで、せっかく最高の品を選んだというのに、サティスファイサーほど満足できないことが多い。

マキシマイザーは、客観的にみれば、サティスファイサーより成功しているかもしれないが、主観的にみると、そうでないことが多い。

たとえばマキシマイザーが、さんざん探し回ってようやくセーターを一枚手に入れたとしよう。
サティスファイサーなら、よほどの幸運に恵まれないかぎり、まずみつけられない掘り出しものだ。

さてそれを手にして、マキシマイザーはどう思うだろう?

注ぎ込んだ時間と労力に腹を立てるのか?
調べなかったオプションにもっといいものがあったかもと想像するのか?
もっと上手に買い物した友人がいなかったかと記憶をたどるのか?
他人とすれちがうたびに、もっといいセーターを着ていないだろうかと横目で確かめるのか?

マキシマイザーは、こうした疑いや気がかりのどれかに、あるいは全部に、さいなまれる。
サティスファイサーは、ぬくぬくと安心して、町を歩く。

 

プロスペクト理論:リスクを伴う決定がどのように行われるかについての理論

例えば、以下の二つの質問について考えてみよう。

質問1:あなたの目の前に、以下の二つの選択肢が提示されたものとする。
選択肢A:100万円が無条件で手に入る。
選択肢B:コインを投げ、表が出たら200万円が手に入るが、裏が出たら何も手に入らない。

質問2:あなたは200万円の負債を抱えているものとする。そのとき、同様に以下の二つの選択肢が提示されたものとする。
選択肢A:無条件で負債が100万円減額され、負債総額が100万円となる。
選択肢B:コインを投げ、表が出たら支払いが全額免除されるが、裏が出たら負債総額は変わらない。

質問1は、どちらの選択肢も手に入る金額の期待値は100万円と同額である。にもかかわらず、一般的には、堅実性の高い「選択肢A」を選ぶ人の方が圧倒的に多いとされている。

質問2も両者の期待値は-100万円と同額である。安易に考えれば、質問1で「選択肢A」を選んだ人ならば、質問2でも堅実的な「選択肢A」を選ぶだろうと推測される。しかし、質問1で「選択肢A」を選んだほぼすべての者が、質問2ではギャンブル性の高い「選択肢B」を選ぶことが実証されている。

この一連の結果が意味することは、人間は目の前に利益があると、利益が手に入らないというリスクの回避を優先し、損失を目の前にすると、損失そのものを回避しようとする傾向があるということである。

質問1の場合は、50%の確率で何も手に入らないというリスクを回避し、100%の確率で確実に100万円を手に入れようとしていると考えられる。また、質問2の場合は、100%の確率で確実に100万円を支払うという損失を回避し、50%の確率で支払いを免除されようとしていると考えられる。

プロスペクト理論とは、このような心理的傾向を考慮した意思決定論などを指す。

プロスペクト理論における意思決定基準は、価値関数と確率加重関数からなる。価値関数は一般的な経済学では効用関数に対応し、それを確率加重関数によって重みづけされた確率と掛けることで、意思決定者の期待を表す。

後にプロスペクト理論は、「累積プロスペクト理論」として拡張された。カーネマンはそこで、価値関数と確率加重関数の式を以下のように特定している。

価値関数:


v(x)=
	\begin{cases}
	x^\alpha & (x \geqq 0)\\
	-\lambda (-x)^\beta & (x<0)
	\end{cases}

確率加重関数:


w^-(p)=\frac{p^\delta}{\{p^\delta + (1-p)^\delta\}^{1/\delta}}

累積プロスペクト理論の確率加重関数では、ショケ積分が採用されている。
また、プロスペクト理論では、意思決定を「編集段階」と「評価段階」という、ふたつのフェイズに分けて考える。まず、編集段階において意思決定主体は与えられた選択肢を認識し、参照点が決定される。その後、「評価段階」において価値関数と確率加重関数を計算し、行動を決定する。

もちろんこれらは「脳」研究のフレームワークとして採用されていますが、現在のところそれらの発生機序が解明されたわけではありません。

統計調査の結果、客観的にそう言えると証明されているということです。

あともう一つ、沢山の選択対象の中から自分が選んだ1つは、他に比べて期待値が大きいという理論もカーネマンの証明した有名な説です。

先に申し上げると、「感覚がどのように脳に伝わるか」ということについては、ここ数十年でかなりの部分が解明されましたが、実際にそれらの「感覚がどのように感情(情動)を引き起こすのか?
」という部分については未だ解明されていない事が多いのです。

何故解明されないのか?

「良いのか悪いのか」「好ましいのか嫌うのか」「幸せか不幸せか」という感情(情動)が、単純に神経伝達や内分泌だけでは定義できないからです。

もっと言えば、本当は苦しくて仕方が無いのに、幸せなことだと表現する人間の複雑性がそこには介在するのです。

フレームワーク設定が困難を極めれば、沢山の臨床データをもってしても、何を目的にサンプルを採取しているのかという部分で違いが発生してしまうわけですから、結局結論づけることが出来ません。一定の結論を導いたとしても、ある任意に設定した条件下でという話になってしまっています。

私がここで思うことは、「統計に参加した人間が、上記の特性を熟知していたとしたら、同じ結果が得られたであろうか?
」ということです。

人間には本能に「一定の調節」を働かせる事ができる「理性」が備わっています。多くは「大脳皮質(大脳新皮質)」に存在すると考えられています。大まかに言うと、カーネマンの唱える「記憶による自己」と重複する部分が多いと思われます。

そして、きっとこれらの人間の特性、性質といったものを、有利ではない場合には特にですが、理解しよう、コントロールしようとするならば、「その事実」を予め知った上で対応するほかありません

「知れば何事も危うからず」ではないですが、先の「初めて宿泊したホテルの部屋」の光景(視覚)記憶が曖昧であるということをわかっていれば、裁判において冤罪を減らす、または必要以上に人間にストレスを与えるような状況を避けることが出来ると思います。

または、会社の上司にあたる人間が、部下に「人間の特性上致し方ない」出来事なのに、意に沿わないからと言って理不尽に叱りつけるような場面も減るかも知れません。そんなことを怒るよりも、「人間にはそういう特性があるから、それを回避するためにはどうしたらいいか?」を教えたほうが余程有意義と言うものです。

極端に置き換えれば、人を知り、理性による調節方法を知れば、戦争も防げるかもしれません。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、これを言い換えれば、「人の特性、本能的性質については認めざるを得ないが、それを理性でコントロール出来なかった未熟さは非難に値する」ということだと思います。

まず何事も知ることから始めることしかないのでしょう。


ここでもう一つ、過去記事(ウイスキーの化学 うまいウイスキーとは何か? 第2回)でご紹介したクロニンジャーのパーソナリティ理論についても、合わせてご覧いただければと思います。

「クロニンジャーのパーソナリティ理論」

http://www.nttdata-getronics.co.jp/profile/lits/lits05_01.html


synaps

シナプス前細胞(A)から後細胞(B)への神経伝達物質伝達(from Wikipedia)
 ①神経伝達物質が詰まったシナプス小胞 
 ②シナプス間隙を拡散する神経伝達物質 
 ③後シナプス細胞の受容体 
 ④神経伝達物質のトランスポーター

個々人のポテンシャルに対しても配慮しなくては本質は見えてきません。

(続く)

### 先の「行動経済学」については「予想通りに不合理」の著者ダン・アリエリー氏の講義がTEDにあります。

ダン・アリエリー「予想通りに不合理」

http://www.ted.com/talks/dan_ariely_on_our_buggy_moral_code.html

ダン・アリエリー:我々は本当に自分で決めているのか?

http://www.ted.com/talks/lang/eng/dan_ariely_asks_are_we_in_control_of_our_own_decisions.html

このTEDというサイトには他にも素晴らしい「講義」の模様がアップされています。日本でも「受けてみたい授業~」という番組がありますが、TEDはその先駆けだと言えるでしょう。

本年のノーベル化学賞は「クロスカップリング」手法を考案した、鈴木、根岸両氏の功績に対して贈られました。

日本の学術研究は世界的に評価されていますが、これらの財産を一般に還元しようという試みは「あまり知られていない」のが実情だと思います。

しかしながら、かなりの予算を投入して実行されてはいるのです。

独立行政法人 科学技術振興機構

サイエンスチャンネル

素晴らしい内容で、親近感のある講義のTEDには「ROLEX」の決して邪魔にならない広告が入っている。一方日本では独立行政法人が、イマイチ閉鎖的な方向性で運営をしていて、天下りだ、行政仕分けだとマスコミが叩く母体にも数えられている。。。

国民全体で恩恵を感じなければ、意味のない活動だと言われる。けれど規制が多くて、目立ったことをやれば叩かれる。誰も手を挙げない、挙げられない。

これは日本人独特の人間としての特性でしょうか? それとも政治的・行政的フレームワークが稚拙なのでしょうか? 

早急に研究成果を吟味して対応策を実行に移さなければ、有能な人間の日本離れを益々引き起こすことになるでしょうし、それでなくても少子化のさなか新しい研究者は育たないでしょう。。。

2008年のノーベル化学賞を受けられた下村教授もアメリカ在住、そのご子息が「ケビン・ミトニック」逮捕に貢献し、「ザ・ハッカー」というハイウッド映画の主人公となった下村努氏。物理学者、コンピュータセキュリティに関する世界的エンジニア。

アメリカ在住だから極めて優秀になったのか、それはどうか分かりませんが、日本が貴重な人材資源を海外に流出している事実にもっと目を向けるべきでしょう。

#ウイスキードリンカー

この記事を書いた人