【5】シングルモルトマニアックス
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アルコールにより、本能や情動を司る大脳辺縁系が開放される。というお話をしました。
この大脳皮質が抑制されている段階では「思考力の低下」「集中力の低下」が起こってくるのですが、一時的にはむしろ歌の歌詞がスラスラ出てきたり、記憶や連想が良くなって「頭が冴えた」ように見える時があります。しかしながらこれは実際には「不安」や「緊張感」が除去されたことに依る「精神的開放感」がそうさせるのであって、実際に記憶力が良くなったわけではないのです。
医薬品として相応しい「麻酔薬」というのは、こういった興奮期が限りなく短く、早く麻酔期に入って、さらに麻酔作用が長期間続くことが望ましいですので、この点アルコールは実際には「麻酔薬」としては不適格なわけですが、お酒全般における「飲酒の効能」と言う面で見ると、興奮期が長く、精神的開放感が得られて、よほど大量に飲まないと麻酔期に入らないというのはむしろ大事な要素でしょう。
そう考えるとウイスキーでもワインでも一時の興奮、精神的開放を「覚醒」と定義するならば、アルコール飲料である限りどんなお酒でも当てはまると言えます。
でももっと深く「覚醒」という言葉を定義したくなるのが、ウイスキーラヴァー。。。
五感や記憶、知識を総動員してウイスキーをテイスティングし、それが何たるかを探求したくなる。
グラスに注がれたウイスキーが活きている限り、頭を回し続け、納得できるまで何杯でも飲み続けたくなる。感覚を掻き立てられる。そんな不思議な魅力を持った飲み物だと思うからです。
ここでそんな我々に厄介な「脳のしくみ」をご紹介しておかなくてはなりません。
「節約的安定化原理(Saving principle of stability)」といわれています。
澤口俊之氏によると、脳は「なるべく少ない情報で、分かりやすくて都合の良い、安心出来る結論を出すようにふるまおうとする」、「思い込みを」起こしやすい性質があると解説されています。
ここでいう思い込みとは、真実・事実とは違う思いや考え、また、将来に対する一面的で勝手な希望的観測を意味します。
左視野だけに「目の前のライターを取ってください」という文を見せると、右脳だけがその情報を受け取り、患者は左手でライターを手に取ります。右脳は左手を、左脳は右手を支配しているからです。 その後、今度は右視野に「なぜライターを取ったのですか」という文を見せると、その情報を受け取った左脳には「先ほど指示が出されたから」という理由がわかりません。面白いのは、ここからです。そこで左脳がどうするかというと、なんと、「タバコが吸いたかったから」などと、適当につじつまが合う返答をするのです。あるいは、右脳だけに女性のヌード写真を見せ、患者が思わず照れ笑いをしたとします。 次に左脳に「なぜ笑ったのか」と聞くと、やはり本当の理由がわからない左脳は、「先生がおかしなことをしたから」などと答えるのです。 つまり、自分ではわからないことでも、「自分がライターを取った」「自分が笑った」という断片的な情報をもとに、適当な理由を繕って、もっともらしい結論を導くのです。 これらの実験で明らかになったのは、「脳は、断片的な情報から、自分が安心できる、またはもっともらしい結論を出したがる」ということです。結論を導くのに必要な情報が十分にある場合はよいのですが、不十分で断片的な情報しかない場合、脳は、なんとかつじつまが合う結論を導き出そうとします。しかも、その際、なるべく少ない情報で結論を出そうとします。脳は、脳内モジュール群の活動をなるべく早く統合して安定させたいからです。脳は、不安定な状態を極力排除しょうと働くものなのです。 |
のちにテイスティングの項でも触れたいと思いますが、右と左、そして両方の鼻でノージングすることは、目の前のウイスキーを正しく把握するためには上記の例からも必須の手段だといえるでしょう。
ところでこの節約的安定化原理によって、前頭連合野では上記の例のように「断片的な情報」「一面的な情報」に頼りがちになってしまって、適当な答えであっても早く結論を出して安定を得ようとふるまいます。
出来る限り多くの情報や知識、記憶を総動員して、物の本質を見定めなければいけないシチュエーションにあっては、自分自身で意識的に注意を払わなければ、事実とは異なる結論を導いてしまうことになりかねません。
反面、長い時間不安を抱えたり、悩み続けていると「不安神経症」や「うつ病」状態になってしまうので、それを避けるための防御機構ともいえるのですが、困ったことに、前頭連合野で一度結論を出して安定化すると、今度はその内容が海馬を介して側頭葉に送られ、「長期記憶」として固定されてしまいます。しかも長期記憶は神経シナプスの「物理的」変更を伴うので、その修正は容易ではありません。
これがいわゆる「思い込み」を起こす機構でもあり、「思い込みから抜け出せない」理由でもあります。
ですので、あらゆる物事を思考する場合に、その初期に「なるべく正確で、客観的根拠があって、多面的な情報を元に行うべき」というのは、脳の構造上からも、理にかなった説だといえるでしょう。
実際の生活ではまだ必要もない学問を、若年から教育する意義付けにもなりますし、ある種の道徳や宗教観のようなものでも、長期記憶として固定してしまえば、その後は容易にその記憶を引き出して「それらの観念を中心に(むしろ他を排除して断片的、一面的に)」思考するようにもなるのです。
長期記憶を刷新、修正するためには、「新しい情報」や「新しい学説」などの収集に意欲的であって、その吟味が自分自身で出来て、必要に応じて謙虚に納得し「新しい結論」を導く姿勢が必要になってきます。
私はウイスキーでも楽器でも、最初からなるべく「良いものに」出会うべきという考えなのですが、誰しもが脳の節約的安定化原理に左右されるのであれば、初期に形成される長期記憶こそが特に重要だと思うからです。その後は各分野で経験を積むとともに、貪欲に情報を収集し、吸収したうえで、それら経験を良い形で結論づけて、記憶する。時には振り返って修正し、進化させることも忘れない。その繰り返ししかないのでしょう。
「覚醒」を得るための道も険しそうです。
#ウイスキードリンカー