僕がお店を開店してからもうすぐ11年の月日がたとうとしております。
そして11年前。
遠くは鹿児島県で僕は、バー・テンダーという仕事の魅力を教えてもらうことができました。
あまりにも遠い場所での修行場所に、当店のお客様からはよく「えっ?じゃぁ天文館ですか?」と言われる事が多いです。
ですが、僕が修行をした場所は鹿児島市内よりも熊本は水俣市、人吉市との県境の当時は大口市と呼ばれた伊佐市にある「BAR OLDCLOCK」にて修行をしておりました。
師匠との出会いは、愛知県豊田市にあるとあるレストラン。
そこで料理人の見習いをしていた私とアルバイトとして入っていた師匠と出会いました。
当時の師匠は、昼はレストランの料理人で夜からはバー・テンダーの修行をされておりました。
いつしか、レストランの建替えにより新しく隣接されるフレンチ・レストランのウェイティング・バーのチーフとして師匠が抜擢されました。
私は、その時にフレンチの厨房で手荒れと格闘しながらもフランス人シェフの下で早朝から深夜まで仕込みに明け暮れていたときです。
私の手荒れが、ついには額や肩の辺りまでただれていったとき、自分の幼少時代からの夢でもある料理人の道をここで絶たれることとなりました。
その時の挫折感は今でも忘れることはありません。
そして今でも、その料理人の夢を捨てきれず自分のお店を持ってからも、できる限りの料理をお客様に召し上がってほしいと思いアミューズとしてお出ししているしだいです。
ですがこの料理人の道が絶たれたおかげで、師匠との関係が生まれることと成ったのです。
ウェイティング・バーのチーフをしていた師匠は、当時(今でもにしておきますか・・・)カウンターでシェイカーを振る姿が本当に格好良く、そのカクテルの作り方は繊細で、まるでグラスの中で絵を描いているような姿でした。
私は、藁をもすがる気持ちでこの「バー・テンダー」という仕事を手伝わせていただくことにしたのです。
当時は、ワインがブームになりつつある時代でまだ5大シャトーでもヴィンテージが若ければ手ごろに楽しめる時代でしたので、レストランの地下のワインカーブには、今考えると恐ろしいものがたくさん眠っておりました。
ちなみにDRCのロマネコンティが15万位でしたね。
ムートンとかラトゥールは、1~2万位だったような気がします。
やはりこの時代、周りの先輩たちはこぞってソムリエの試験を受けておりまして、私もそれなりに勉強をしておりました・・・・が当時の若く突っ張っていた自分は性格上負けず嫌い&誰かがやっていることはどうも一緒にやりたくなく、しかも自分で新しい味わいを作ることができるというカクテルの魅力の方が性に合っているような気がしました。
当時もウェイティングバーというスタイルには馴染めないお客様が多くて、いつもバー・カウンターは静かなものでした。
ですからそこに人員を割く事はできるはずもなかったのですが、私は自分の休憩時間や早上がりの日には必ずバー・テンダーの格好に着替えてカウンターに入り、ステアの練習やシェイクの練習をしておりました。
実を申しますと、私と師匠は「犬猿の仲」でして同じ厨房にたっていた頃は、よく反発をしていたものです。
まぁ約10歳も上の先輩に対して19歳の自分が物申しているわけですから、かなり突っ張っていたことがわかります。
今では本当に恥ずかしく感じますが・・・。
そんな自分を師匠は「どうせ興味本位でろくなもんにならんだろ、だから適当にあしらうか」という感じだったみたいでした。
ですが、そんな事はなにも気づかずに、ただただ自分の知らないこのバー・テンダーの世界にどんどん夢中になっていき、自分でも今までない位のはまり方をしておりました。
暫くして、ウェイティング・バーを閉めると社長に言われ当然師匠も行き場所がなくなり会社を辞めることとなりました。
ウェイティング・バーから、もうシェイカーの心地よい響きと繊細な動きを見ることはもう無くなってしまったのです。
辞められてからの師匠は、別の大型店のBARに勤め始めましたが、私はまだレストランに残りサービスマンとして今は亡き、店長の下で「接客」を学んでおりました。
ですが、私のバー・テンダーに対する火は小さくなることはなく、変わらずシェイクやステアの練習は常にしておりました。
そして、いつしかちゃんとしたBARで修行を積みたいと考え地元に帰り浜松のとあるBARで少しの期間ですが修行することとなりました。
じつはこの時、師匠から地元に帰り自分のお店を持つ予定だということを聞かされていたのです。
その話を聞かされた私は、「絶対に僕も一緒にやらせてください!給料は要りません!!」と言って半ば押しかけ女房的にお願いをしていたのです。
浜松の修行先のBARのマスターは、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますがまぁ結構怖い方で・・・お蔭様で数ヶ月の間でもかなりの進歩がありました。スパルタですねほんと。
色々あって、辞めることになりましたがこれでも結構感謝しているんですよ。
そして、ついに師匠が地元でお店をOPENすることが決まったことを聞き、その当時
行き場のなかった自分は、師匠にお願いするしかなく「数ヶ月の間だけでも手伝わせてください」とお願いをしました。
今思えば、この時師匠が「じゃぁ来るか?」と言ってくれなかったら今の自分はなかったのでしょうね。
そして、その年の冬。
当時の愛車で静岡から鹿児島まで走らせ、約半日かけて鹿児島県大口市という場所に到着しました。
田舎だよとは聞いておりましたが、まぁここまでとは・・・朝は牛が散歩していますし・・・。コンビニも最近できたばっかだと聞くし、そりゃもうここでBARをやるんですか?と本当に思いました。
でも、この田舎がよかったんです。
大口のお客様は本当に暖かく、他県からきた自分を本当に暖かく迎えてくれたことを今でも感謝しております。
当時のBAR OLDCLOCKは阪神淡路の大震災のときに使われた仮設住宅のコンテナを改築したお店でした。
それでも、カウンターやバックバーはかなりの雰囲気で、とてもコンテナの中でやっているとは思えない店内でした。
バックバーに並ぶ酒も、モルトの数は300くらいあったんじゃないかな?
しかも当時でも考えられないくらいの値段でしたね。
バンクの12年赤アザミとか普通に800円とかで出していたような気がします。
お客様との関係もよく、田舎ならではの「のんかた」もよくやりました。
そんな大口の空気がよく、いつしか3ヶ月の約束だったのが結局約3年も師匠の下で働かせていただくことができました。
師匠にもまだ夢があり、このコンテナBARをもっとしっかりとしたものに変えたいと考えていて、ついにはこのコンテナBARを閉めて、一軒家のBARを建てる事になりました。
そして、私は残念ですがこの時祖母の容態が悪くなり両親からも傍にいてあげなさいと言われ実家へ戻ることになりました。
実はすでにこの時、私も自分の城を持つべく行動を起こしており、早くしてBAR NO'AGEを開店する事となりました。
24歳の自分がどこまで出来るかはわかりませんでしたが、その当時の私はまだまだ血気盛んでしたから、なにも心配はしておりませんでした。
そして、師匠に教わったことをしっかりとやれば出来ると信じていたのです。
自分のお店が、OPENをして1年が過ぎると準備をしていた師匠の新しいお店が出来上がったことの知らせが来ました。
もちろんお手伝いに行きました。
するとその店内は、なんともまぁ一枚板のカウンターじゃないですか?!
というか凄いです。
まだ新築の香りのする店内には、料理人だった頃の先輩もこれから師匠とタッグを組むということで、なんだか懐かしいような空気がありました。
あれから10年。
8月28日に、新BAR OLDCLOCKは10年を迎えることになります。
本来ならば、伺うべきところなのですが外せないことがあり不義理をしてしまいますが、お花だけは送らせていただくことにいたしました。
私にもその昔、弟子がいましたが教える私が若く、いい関係を作ってあげることが出来ませんでした。今でも色々と後悔があります。
ですが今の自分と師匠のような関係が作れるのは、やはり師匠の器の大きさなのだと思います。
まだまだ自分は追いつくことが出来ません。
やはり師匠の背中は大きいものです。
一生これからも師弟であることを私は誇りに思っております。
そして、師匠本当に10周年おめでとうございます!
鹿児島県伊佐市大口上町34-6