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浜田明美は、洋酒の輸入卸を営んでいた。規模でいえば、2ブランド合計7種類のウィスキーと、イタリアのリキュール2種類をやりくりし、年間1200ケースを動かす程度。イタリアのリキュールに関しては、百貨店とウィスキーで取引を始める際に交換条件として持ちかけられたものを続けているだけ。もともと、生産量の少ないリキュールで、輸入を始めるまでにずいぶん大変だったことと、定期的に売れているからやめるほどではないことで、まだ取り扱いをやめないでいる、やめられないでいる、それだけだった。メインは、父が惚れこんで始めたウィスキー。その仕事を引き継いで以来、輸入、営業、全てをこなし、土日も情報収集や取引先との付き合いで飛び回る。今日も、事務兼雑務の大木俊夫は、事務所に問い合わせでかかってきた電話にいつものように応える。「はい、浜田は、ただいま外出しております。」電話相手が、決まって、ああそうですかと呟くのに合わせて、溜息をつきそうになるのを、これもいつもと変わらずぐっとこらえる。

そんな明美が、今日は、事務所で天井を眺めている。書類棚から昔の書類を引き出してみたり、ウィスキー専門誌をパラパラとめくってみたりと、全く、仕事をしているようには見えない。昼過ぎに戻ってきてから、随分と長い時間をそうして過ごした後、大きな音をさせて椅子から立ち上がり、サンプルで買った”グレンモーレンジ ネクタードール”を開栓した。来客用の湯飲みやグラスの入った食器棚、その上の段を開け、どこかのセミナーでもらったテイスティンググラスと、バカラのグラスを見比べた後、バカラのグラスを2個取り出した。「大木君、今、特に注文もないし、ミーティングテーブルでちょっと付き合ってくれるかな。」もちろん、断らせる気配のない、強制にも似た確認。大木は、問題ないということを伝える以外に、どんな言葉も見つけることができなかった。内心、明美のいつもとは違った様子やウィスキーを飲む誘いがうれしいからといって、喜んで、と言って、好意を前面に押し出すのに、気がひけた。

明美は、決して美人ではないが、ぱちりとした目に、小さな鼻と口のバランスがとれていて愛嬌のある顔立ちで、見る人を幸せな気持ちにさせる。きれいなシャツにスーツでシンプルにまとめたところは、きちんとビジネスとプライベートの線引きをしているように見えるし、好感が持てる。大木は、3年ほどの付き合いになる明美のことが気に入っていた。もちろん、その関係をプライベートに移行したいという願望はなかった。流れるままでいい、それが大木のすべての物事に対する距離であり自覚する部分であった。海外に留学し、ラスベガスのホテル最上階にあるレストランでウェイター、そしてスーパーバイザーとして働いたことのある大木は、仕事そのものに満足したから帰ってきた。仕事が終われば住み慣れた場所が暮らしやすい。もともと、売上を伸ばす、というような仕事が向いているはずもなかったが、とりあえず、大学中にバイトをして面白かったから、やってみたかった仕事。それなりにうまくいって、一応出世することもできたが、やってみた、という、そこまでで満足して、帰国することを選んだ。帰国してからは、バイトで生活費を稼ぐだけ。そんなときに、紹介されたのが株式会社浜田洋酒店の事務員の仕事である。聞き始めたら胡散臭いとしか言いようがないが、高校時代の同級生の親がやっている法律事務所の先生の友達の親戚というような、長い長い言い回しの果ての紹介だった。英語ができる事務員を雇いたい、自分が稼ぐ間の留守番と簡単なコンピューターでの処理だけでいい、その明確でいて今までのことも無駄にはならない仕事内容が、少なくともファーストフード店やコンビニでバイトするよりは面白そうだったから引き受けた。日本に帰ってきて、からだや気持ちがなじんできたこともやや精力的に活動したいと思わせる理由だったのかもしれない。とにかく、タイミングが良かった。

「大木君は、うちで働き始めて、もう3年くらいになるんだから、びっくりするわ。時間はあっという間に過ぎる。」そう言いながら、グラスにウィスキーを注ぐ。礼を言いながら、自分が注ぐという素振りを見せると、明美は大丈夫だからと言いながら、自分のグラスにも注いだ。「試飲でしょうか。あまり、難しいことは言えないから、申し訳ないです。」大木は、この、3年間の末に訪れた変化に、慎重に言葉を発する。「試飲じゃないわね。これなら、誰にでも飲めると思ったから。」といって、明美はボトルの口から少し下まで人差し指を滑らせた。大木は、それではどんな理由が、と、明美の目を見つめ、それから手元のグラスに目をやった。明美はその視線を受けてウィスキーを口に運び、一口飲んだ。「今日、ネクタードールみたいな女になればいいのに、って言われたから。」と、ニッコリとした。トンとグラスの立てるきれいな音が邪魔だと大木は思った。大木はネクタードールみたいな女、という言葉の意味を考えながら、グラスに注がれた液体を眺めた。それから多めに口に含むつもりでグラスを傾けた。難しいことは言えなくても、雰囲気はわかる。ワインのテイスティングは仕事柄、よく出席していた。仕事で必要なことなら興味がなくてもこなせた。それが役に立つのかどうか。「うっとりとするような金色、華やかで美しい雰囲気、やわらかく甘いシロップのような、ウィスキーですね。ウィスキーに関しては全くの素人なので、そんな程度ですけれど。」明美はうなずきながら、付け加える。「誰にでも飲みやすく女性にも初心者にもすすめやすい、でも長年のファンにも好まれてしまう、私には、家庭のかわいらしい奥さんっていう感じがするの。」そして、短く呼吸した後に「そうはなれないわ。仕事が気に入ってしまったから。」明美は、また、微笑んだ。

明美自身、なぜこんな話をする気になったのか、よくわかってはいなかった。昨晩、明美は仕事を終えて家に戻り、かかってきた電話に気付かずに眠った。取引先担当者の定年退職慰労会で、疲れ切っていた。本来なら、自分が呼ばれるのには内輪すぎる会だった。確かに気に入ってくれているのは知っていた、でも、仕事と個人的なことは別、けれど男は気に入った異性が仕事先にいて、自分が優位にたっていれば、やはりその権力を乱用したがる、情けない生き物だ。本来、輸入卸と販売者のどちらが優位であるなんて差はないものの、小規模の輸入卸では、売上の20パーセントを占める取引先の機嫌を損ねるのは得策とは言えない。明美は、そんなつまらない付き合いには、両親の笑顔を思い出し、いやな顔をしないように対応した。電話に出られなかったことを謝るために電話して恋人から言われた言葉は彼が一番の理解者だと信じたかった明美の希望を打ち砕いた。会社は引き継いだけれど、順調とは言い切れない中で、今日が丁度、交通事故で他界した両親の命日であったこと、それでスイッチが入っただけとしか説明しようがなかった。嫌気がさしたわけでも、感傷的になっているわけでもなく、ただ、その話がしたかった。恋人、おそらくは元恋人としか言えなくなってしまった彼の言葉が頭から離れず、今、話を聞いてくれるのは、大木しか見当たらなかったから、そのまま話してみた。ただそのまま話すのに、サンプル棚にあった、ネクタードールが目に入ったから、ちょうどいい機会だと開けることにした。単純な事実の積み重ね。受け入れるのに失敗すればひどく落ち込みそうな状況の中の自分に、何度繰り返しても慣れないんだと言わんばかりにはにかむ大木の言葉がしみ込んだ。「どんなものでも、ウィスキーはウィスキーですね。今さらウィスキーがウィスキーにならなくても。」

大木にとって、その台詞は、予想外だった。自分でも、そんなことを言うつもりはなかったし、何かを言うとしても、おそらく恋人から言われたのであろうことに対して、プライベートの明美を知らない自分が言うことではなかった。シロップの甘さを華やかにふりまく、ネクタードールのせいだ、と、大木は思う。甘さがすっかりしみこんでしまうから、つい、甘い言葉を吐き出したかった。流れるままでいいなんてことはない。大木は思う。でも、ウィスキーに言わされるのではなく、自分で選んで言う方がいい。飲みなれなくてはいけないな、そして大木はウィスキーを愛飲するようになっていくのだ。

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