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6月の桜

西新宿にあるライブハウス、ナーブ。幸子と初めてあったカウンター席で、店長のお決まりの文句を聞いていた。「おれのわかいころはジョニ黒は飲めなかったんだァ。」と必ず語尾を伸ばす。初めて会ったときから、ずっとジョニ黒と言い続けているなと思うと自然と笑みがこぼれる。初めて会ったときは、若い頃の俺にかわって飲んでくれと、おごってもらったのだった。飲みながら、昨日もまた見た夢のことを考える。

どんなに幸せでも、心やすらかでも、繰り返し見る夢がある。木の幹にからだを添わせるようにして立つ幸子。上を向いて空を眺めている。気の遠くなるほどの時間が過ぎたとき、突然枝々に火が揺らめき始める。その火は次々に重なり、大きくなり、そして木は炎に包まれる。炎のはじける音、それから白んだ空気を乱暴に揺らす叫び声。すぐに駆け出すけれど、どれだけ走ってもたどりつかない。遠くに叫び声の主を探すうちに、木には桜の花が咲き乱れる。しかし、それを桜の花だと認めることはできない。自分の知っている桜は、こんなにも、視界を焼き尽くしたりはしないからだ。その桜のもとに倒れる幸子。幸子のからだに火の粉が落ちる。まるで火の粉のように見える花びらが舞い落ちる。するとからだの他の部分からは、あふれんばかりの花びらが舞いあがる。すぐに彼女のからだは覆い尽くされ、見えなくなってしまう。強い風が吹く。花びらはすべて散らされ、あとにはただ木と遠くから見つめる自分が残される。そして、木がギシギシと音を立てながら崩れ落ちると、ただ白んだ空気の中に、間抜けに立ちすくむ自分がいるだけになる。

幸子と暮らし始めて、その夢を初めて見たとき、飛び起きて喚き散らしたらしい。らしい、と言ったのは、自分では覚えておらず、幸子から聞いただけだからだ。「6月に桜が」「燃えた」「木がくずれる」「幸子」「はやくいかなくては」と、わけのわからないことを繰り返すだけの同棲相手を、幸子はただ、抱きしめて、なだめていた。なだめられている間に、少しずつ記憶がはっきりしてきたのを覚えている。それから、幸子に、繰り返し、夢のことを説明した。説明を終えたとき、幸子はふと体をはなすと、出会った頃と変わらない、わさわさしたまつ毛を揺らして大きく目を見開き、ゆっくりと大きな笑顔をつくった。「子供のころ、読んだことのあるSFに”6月の桜”という話があったのね。作家が日本に旅行にやってきたときがちょうど春真っ盛りで、それはそれはきれいに桜が咲き誇っていたそうなの。それで作家は旅行記のように、人のために良いことをしたロボットは、6月に咲き乱れる桜のしたで役割を終えることができるんだと書いたわ。その情景がきれいで、わたしも、6月の桜の下で死にたいって思っていた。」その話を聞いたとき自分でも無意識的に叫んでいた、「しなないでくれ。」と。幸子は、もう一度大きな笑顔で「わたしは人のためにできることは少ないし、ロボットのように的確にいつも頑張り続けられないから、そんな資格ないわ。」と言うのだ。うまく伝えられないことがただ悔しかった。今度は自分から幸子を抱きしめる。幸子が、6月の桜のもとに行ってしまわないように。

ライブハウスを出て、歩いて家まで戻る。家の前にある児童公園には、見事な桜の木が植えてある。地区の小学校の校舎が老朽化し、それを立て直したときに、古くからあった桜を移植したのだそうだ。6月も間近だ、桜など咲くはずもない。それでも、あの夢を見た日には、花をつけていないかどうか、確認せずにはいられなかった。ふと木のしたのベンチに腰かけて空を眺めていると、急に声をかけられた。「のぞむ、こんなところで風邪ひくよ。」Tシャツにジーンズ、パーカーをはおった幸子だった。「コンビニで、買い物。飲んだ次の日は、オレンジジュース朝飲みたいかと思って。」と、右手のビニール袋をかさかさと揺らしてみせた。正直に告白する。「桜が咲いてしまったら、困るから見に来たんだ。」幸子は、今はもう大丈夫よと言いながら、隣に腰をおろした。争わず、欲張らず、本当に必要なもの、大事なものだけがわかれば、やっぱり6月の桜のもとに行くよりも、長生きしたいと思うものだと説明する幸子の頭に、何かがひらりと落ちてきた。ただの紙くずだろうけれども、それは、まるで桜の花びらのようだった。6月の桜のお別れのようにも見えて、二人でしばらく見つめあった。「あなたは、今の暮らしと、わたしがいるだけで満たされている?」そう聞く幸子に、一番の笑顔で、うなずいてみせる。ふと、ナーブの店長の声が聞こえた気がしたので「それから、ジョニーウォーカーの黒ラベルもあると助かるな。」と言うと、幸子は立ち上がり、手をひいて家に帰って飲もうと笑うのだった。

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