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竹鶴政孝と昭和町

昭和町に働きに来てもう4年以上になる参段ですface02。う~ん・・・大阪市内に住み始めて11年・・・昭和町という地名は働きに来るまで馴染みがなかったよなぁ・・・というかほとんど知らなかったよなぁ・・・でも住めば都icon12!のみならず働けば都icon12!昭和町いい町ですicon22

”竹鶴政孝”さんと言えば・・・皆様、ご存知ニッカウヰスキーの創業者で”日本のウイスキーの父”と呼ばれている偉大なお人ですface01

1894年に広島県竹原市で竹鶴酒造を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として生を受け、1916年に大阪工業高等学校(現大阪大学)の醸造学科を卒業後、大阪市の洋酒メーカー、摂津酒造に入社しましたface01

その後、単身スコットランドに渡りウイスキーの蒸留技術を学びスコットランド人の妻リタ夫人と1920年にグラスゴーで家族の反対を押し切り結婚後、リタ夫人と共に同年11月日本に帰国しましたface02。その後1923年、壽屋が日本初のウイスキー蒸留所の竣工を計画した際に、竹鶴は壽屋に招かれ、工場の設計を全て行い、竣工されたその翌年1924年から山崎蒸留所の初代工場長を務めましたface01。そして後に竹鶴は壽屋を退社し、北海道の余市に蒸留所を建設する事になったのですicon12

とここまでは竹鶴政孝のプロフィールを簡潔に要約しましたが、日本のウイスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝と猫バーの所在地、大阪は阿倍野の昭和町には繋がりがあるのですface06

ご存知の方も多いとは思いますが・・・実は竹鶴政孝が日本に帰国した際に、その時在籍していた摂津酒造が純国産ウイスキーの製造を企画していたのですface06。が・・・しかぁ~しicon23!その時は不運にも世界恐慌が起こり資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまいました・・・icon15。その後1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えていたのですface01

竹鶴政孝と昭和町の繋がりは・・・竹鶴政孝が教師として教鞭を執っていた桃山中学(現:桃山学院高等学校)は猫バーから徒歩5分位、昭和町駅から南に約300メートルにあるのですface02

「竹鶴政孝と昭和町」・・・今からおよそ86年前の1922年、”日本のウイスキーの父”竹鶴政孝は昭和町で科学の教師として教鞭を執っていましたface01。もしかしたら猫バーの前の道を歩いていたかも知れませんface06

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