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余市蒸溜所(2)。

(左はニッカウヰスキー竹鶴政孝社長、右は彌谷醇平副社長)



昭和27(1952)年
4月、東京都中央区日本橋に本社移転。
8月、「ニッカウヰスキー株式会社」に社名変更。
ウイスキーを売る会社が、大日本果汁株式会社でもあるまいということから社名を変えた。
創業以来18年。壽屋の鳥井信治郎に対する義理という心理的重圧のくびきからようやく解き放たれたのだろうか。本来の「ウイスキー」という商品の名を社名につけて、すっきりとした。
11月、東京都港区麻布(元毛利家下屋敷。現六本木ヒルズ)に、東京工場新設。

壽屋が社名を「サントリー」に変更したのは、創業者・鳥井信治郎(1879年 – 1962年。敬称略)が亡くなった翌年の昭和38(1963)年である。

昭和29(1954)年7月
加賀正太郎、芝川又四郎が、ニッカの株を朝日麦酒(山本為三郎社長。現アサヒビール)に譲渡。

大株主はいても、社長の私ひとりで、銀行に行って融資を頼みこむというのが普通だった。そのころが私の生涯で(資金難のため)いちばん苦しかったといえよう。昭和28年のことだ。
ちょうどそのころ、株主の加賀さんのガンが悪化し、命旦夕に迫っていた。で、加賀さんもニッカの将来について案じられ、芝川さんと相談して、二人の株を合わせて60%のニッカの株を、山本為三郎さんに渡したのだ。山本さん個人ではなく、朝日麦酒に株を売ったのである。
このとき、私は淡々とした気持でそれを聞いた。これで、私も銀行に頭を下げる必要もなくなり、ウイスキーづくり一筋に専念できる。また、山本さんなら私を、昔から理解してくれている人だから、ニッカのために悪いようにはなさらないはず、と私は胸をなでおろしたのだった。

竹鶴政孝(1894年 – 1979年)と山本為三郎(1893年 – 1966年)は、摂津酒造時代から40年近い旧知の仲で、竹鶴がスコットランドへ留学したときには、山本は壽屋の鳥井とともに見送っている。

山本さんは「過半数の株を持っているが、経営のほうはあなたに任せる。私は相談役になり、何も仕事については干渉せぬから、思うままにやってくれ」といわれた。
それから、山本さんの条件がひとつあった。「竹鶴さん、あんたの技術と、ニッカの品質は一流だ。そして経営者としてもあんたは立派な人物だ。だがその信念、理想を実行に移す人がいないのではないか。営業担当重役として、かっこうの人物を紹介するから、営業はその男に任せてみてはどうや」
その人物が現ニッカ(昭和41年当時)の彌谷醇平副社長(のちに社長)である。
たしかに、朝日麦酒に株をゆずってから、ニッカという会社は、また一段と進歩してきた。これは大きなエポックであった。

彌谷はコロンビア大学で経営学を学び、関西のマルキン醤油が関東進出を図った際に、たちまちのうちにマルキンを全国四大銘柄の醤油に育て上げた人物であっだ。



当時ニッカの売り上げは北海道<6>、内地<4>の割合だったが、これが丸びん(通称ニッキー)の発売(=彌谷の施策)で一挙に逆転、全国商品にのし上がった。
ウイスキーの販売金額は、昭和29年を<100>とすると、34年は<534>になり、ニッカの基礎をかためたのである。

平成13(2001)年4月
ディアジオやペルノ・リカールを見るまでもなく、さまざまなアルコール飲料を提供できる総合酒類メーカーでなければ、世界的に生き残れない時代を向かえて、アサヒビールとニッカウヰスキーが47年を経て「営業部門」を統合。

  字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
  字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
  字は、「琥珀色の夢を見る(竹鶴政孝とニッカウヰスキー物語)」より。

     余市蒸溜所(1)。
     余市蒸溜所(2)。
     カフェ式連続蒸溜機。

#ニッカウヰスキー

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