副団長直々にダメダメ団入団を許可されたにもかかわらず、今日もダメダメ活動自粛中のkovayahnです。
ちょっとまだ胃の調子がよくなくて・・・明日には復活できるかな。
この週末、私がダメダメ活動に励んでいる間に、二人の偉人がこの世を去りました。
アントン・ヘーシンク氏と、山本小鉄氏です。
ヘーシンクに関しては、もちろん東京オリンピックは見てないですし、プロレスラーとして全日本のリングに上がっていたのもかすかな記憶しかないので、あまり思い入れはありません。
でも山本小鉄さんに対しては、思い入れがてんこ盛りです^^;
小鉄さんは、サラリーマンをやりながらボディビルに励み、力道山最後の弟子として1963年に日本プロレスに入門しました。
その後、アメリカでも星野勘太郎選手とともに「ヤマハ・ブラザーズ」として活躍し、1972年にアントニオ猪木の新日本プロレス旗揚げに参加しました。
残念ながら、私はヤマハ・ブラザーズとして活躍していた頃はおろか、現役時代の小鉄さんをほとんど覚えておりません。
私の記憶の中の小鉄さんは、解説者であり、新日本プロレスの審判部長であり、時にはレフェリーもされるという人でした。
実況の古舘伊知郎さんとの絶妙の掛け合いは、非常に耳に残っております。
何より一番記憶に残っているのは、以前ラッシャー木村さんが亡くなられたときにも触れた、アントニオ猪木vs木村、浜口、寺西という1対3のハンディキャップマッチのときの光景です。
この試合はハンディキャップマッチということで、カットプレーを厳密に裁くということで行われていました。
そしてその場面。猪木に技をかけられた木村を救出しようと浜口がリングインしようとしたときに、レフェリーを務めていた小鉄さんが見事なタックルを決めてテイクダウンを奪ったのです!
当時から、道場では小鉄さんが「鬼軍曹」と呼ばれていたことは知っていましたが、このシーンを見て「小鉄さんってホンマに強いかも」と子供心に思った記憶があります(逆に『浜口ってレフェリーより弱いんか?』とも思いました^^;)。
おそらく、私の大好きだった頃の新日本プロレスを作り上げたのが小鉄さんで、「小鉄イズム」なる言葉もあると聞きます。
小鉄イズムを継承する選手がいる限り、小鉄さんの思いは継承されるのだと思います。
今日は純粋にプロレスネタで。
小鉄さんに合掌。
#プロレス