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追悼・ラッシャー木村選手

ちょっとサボり癖がつきそうなkovayahnです。

前回のブログで取り上げたばかりの、ラッシャー木村さんが亡くなってしまいましたcry

木村さんは、大相撲宮城野部屋から1964年に日本プロレスに入団。
東京プロレスを経て国際プロレスに移籍し、エースとして活躍しました。
国際プロレス崩壊後はアニマル浜口選手(浜口京子ちゃんのお父さんです)、寺西勇選手とともに新日本プロレスに参戦。
その後旧UWFを経て全日本プロレスに移籍し、そこでマイクパフォーマンスで大人気を博しました。
ジャイアント馬場さん死後の2000年、プロレスリング・ノアの旗揚げに参加。
2003年より体調不良のためリングを離れ、翌年そのまま引退表明をされました。

私が知っているのは、新日本プロレスで「はぐれ国際軍団」として猪木の敵役をしていた頃からです。
最初は猪木と対等に近い扱いだったのですが、徐々に扱いが下がっていき最後には3対1(木村・浜口・寺西vs猪木)という屈辱的なハンディキャップマッチを組まれてしまうまでになってしまいました。

旧UWF時代の木村さんはほとんど知りません。
気がつくと木村さんは馬場さん率いる全日本プロレスのリングに上がり、「国際血盟軍」を結成して馬場さんと戦っていましたが、あるとき馬場さんと「義兄弟の契り」を交わして馬場さんを「アニキ!」と呼ぶようになりました。
この頃になると、木村さんのファイトは新日本参戦時のような殺伐としたものではなく、ある意味コミカルなほのぼのとしたものになっていました(マイクパフォーマンスが大人気となったのもこの頃です)。
この頃の木村さんは、見ている人を幸せにしてくれるようなレスラーでした。

晩年はかなり体調も悪そうで、見ていてちょっとツラいところもありました。
生涯現役を宣言しながら欠場せざるを得ず、そのまま引退となってしまったのは心残りかもしれません。
でもこれで、「アニキ」馬場さんと「義兄弟タッグ」を再結成してくれるものと思います。

追悼のボトルは、木村さんの出身地でもある北海道の「余市」。
マイクパフォーマンスならぬコストパフォーマンスの大変優れたボトルだと思います。
木村さんの冥福を祈って、”Slainte mhor!”



#プロレス

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