前回、日本で飲酒運転の問題について掲載しましたが、アメリカでは飲酒運転が原因ではないものの禁酒法(1920年~1933年)という憲法まで制定されたという歴史があります。バーテンダーなら当然知っているこの禁酒法を紹介しましょう。
ピューリタン(清教徒)の影響が強かったアメリカ合衆国では、アルコールに対する強い批判があり、1851年にメーン州で最初の禁酒法が制定されたのを皮切りとして20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施されました。
宗教的理由に加え、男性が不健全な酒場に入り浸り、家庭生活に支障をきたすことに対する女性からの批判は大きく、女性を中心とする禁酒運動は根強く存在していたのです。(酒場が全て不健全と決めつけてるようで異論を唱えたくなりますが・・・)
そこに1914年の第一次世界大戦の開始にともない戦時の穀物不足を防ごうとするという経済的な動機が出現し、全国的な禁酒法制定への機運が盛り上がったのです。禁酒法制定を全米に適用するには憲法の修正が必要とされていたのですが、紆余曲折を経て1918年の第一次世界大戦終戦後に憲法修正を受け連邦議会は禁酒法を制定し、翌1920年からアメリカ全土で施行されたのです。(とんでもない憲法ですから時間はかかりますよねぇ)
禁酒法では、飲料用アルコールの製造・販売・運搬等が禁止されていましたが、自宅内における飲酒は禁止されなかったので、多くの富裕層は施行前に酒を大量に買い溜めしていたようです。(いつの時代も金持ちはズルイ人が多い!)
しかし、この禁酒法は実際には巧く機能しなかったと言われています。
まず隣国カナダからの輸送を取り締まらなかった為、カナダ国内で合法的に販売された酒類は爆発的に売れ、アメリカへと持ち込まれることになったのです。これによりカナダ経済は非常に潤うという結果を生んだのです。(カナダにしてみれば“タナボタ”ですねぇ!)
そして、禁酒法の執行官の待遇が悪かった為、密造業者や密造、アル・カポネをはじめとする密売に関わるギャングに買収されたりした執行官が多かったわけです。更に密造酒による健康問題や、密売に関わるギャングやマフィア同士の抗争による治安の悪化も問題となったのです。 これを映画化したのが『アンタッチャブル』です。まさに禁酒法時代のアメリカが描かれた映画です。
不健全な酒場を廃止することが目的の一つだったのに、より不健全な非合法酒場が横行してしまったんですねぇ。
忘れてはならないのが、今日の我々が日本でバーテンダーという職業につくことができたのも、この禁酒法のおかげ?なのです。
ヨーロッパでは法の目をかいくぐって運び込まれた粗悪な密造酒や密輸入酒にジュースやシロップ、ビターなどを混ぜて飲むことが流行し、そのお陰で様々なカクテルが誕生、カクテルブームに拍車をかけたのです。その一方で禁酒法に嫌気をさした良心的なバーテンダーたちがアメリカを離れ 世界各地に職を求めて移っていきました。 その結果、カクテルは世界中に普及することになるのです。(パチパチ!)
1929年の世界恐慌で景気が後退すると、密売酒・密造酒が課税されないことが財政難の中大きくクローズアップされる様になりました。 時のルーズベルト大統領は就任すると、かねてからの公約通り禁酒法の廃止へと動き、禁酒法は1933年12月5日に廃止されたのです。
禁酒法が施行されていた期間は、13年10ヶ月。フーヴァー米大統領が「高貴な実験」と呼んだ禁酒法は、悪法の代名詞として後世に記憶されました。しかしながら現在でも、州レベルで禁酒法を制定しているのはアメリカのみに限らずインドでも存在しているのです。
ウシュク・ベーハー(ウイスキー)、オード・ビー(ブランデー)
ズィズネニャ・ワダ(ウォッカ)、アクア・ヴィタエ(アクアビット)・・・
上記の言葉は()内のお酒の語源となっているものですが、何を意味するかご存知ですか? “ 生命の水 ”です。ラテン語のアクア・ヴィタエを語源とし、各国の言葉で直訳した言葉ですが、古来より人は酒を“ 生命の水 ”と呼び、生きていく上で必要不可欠なものとして飲み続けてきたのです。
その“ 生命の水 ”を取り上げようなんてこと自体に無理があったのでしょう。
我が国も飲酒運転への批判の声が高まったら禁酒法のような法律ができるのでしょうか? ・・・まさか飲酒運転が原因で禁酒法なんてものが制定されることはないでしょうが、そんな法律が施行されるのだけは勘弁願いたいものです。
“ 生命の水 ”を愛し、扱うものの一人として“禁酒法”反対。
#酒