スコットランドに行ったら、蒸留所もだけど、ピクトストーンを見たい若造です。
ピクト族とピクトストーンについてやってみます。
ピクトとは、スコットランドの先住民で、ケルト民族の一派。ブリテン島に渡ってきたケルトには3派あって、古い順に、ピクト、ブリトン、ゲールと言われ、ています。
ブリトンは主にウエールズやイングランド、ゲールはアイルランドで、ピクトはブリトンやゲールに押されて、ブリテン島の北へ移動しました。最終的に落ち着いたのが、現在のハイランド、オークニー、シェットランド。紀元前8~9世紀頃から、数百年くらいの間と言われています
ピクトには体に刺青を彫る風習があったと言われ、英語のピクチャーの語源にもなっています。
そのピクトが再び南下するのを恐れ、ローマ皇帝ハドリアヌスがローランドとイングランドの境に長城を築いた話も有名です。
ローマがブリテン島を去ったのが西暦5世紀頃。その頃北アイルランドからゲール族の一派であるスコッと族がキンタイア半島を渡り、そこにダルリアダ王国を築きました。
ピクトは本当に謎に満ち溢れた民族で、実際はどこから来てどこへ渡ったのかも不明で、本当にケルトの一派なのかもわからないそうです。ケルト民族はもともと部族意識が強く、中央集権的な国家が苦手と言われており、ピクトには当時王国と呼べるものはなかったそうです。
一般的に、先住民の痕跡は地名に残ると言われますが、不思議とスコットランドにはピクト由来の地名は残っておらず、7割以上が後からやってきたスコット族起源のものです。
ピクト由来のものでは、ピクト族の集落という意味のピット(pit)という接続詞が知られる程度です。
保養地として有名なピトロッホリーなどがあります。
数では圧倒的にピクトの方が多かったのですが、西暦9世紀にピクト・スコット連合王国のアルバ王国が誕生しました。
最初の王はスコット族の王、ケネス・マッカルビンだったと言います。
スコット族がピクト族を支配するのに有効だったのが、キリスト教で、実はピクトにキリスト教を布教した聖コロンバはスコット族の王子だったそうです。
もともと文字を持たなかったピクトは、大きな意味でヨーロッパ文明に飲み込まれ、歴史の表舞台から消えました。その丁度激動期に造られたのがピクトストーンだそうです。
ピクトストーンは3つのクラスがあり、最も初期に作られたクラス1は、不思議なシンボルだけが、石の表面に書かれています。
シンボルは28パターンが知られており、そのうち16が鳥や魚、動物など。残りは宇宙人が書いたような摩訶不思議な紋章。
中には空飛ぶ円盤や、宇宙人にしか見えないものもあります。
そして不思議なのは、この28パターンがほぼ例外なく、2つ組み合わされて彫られていることです。
さらに、それらの2つのパターンと一緒に、櫛と鏡が描かれています。
櫛と鏡が象徴するものと言えば・・・女性ですが、学者によれば2つのパターンはそれぞれの部族、または家系を表し、どの部族とどの部族が結婚、同盟をしたのかわかるように石は作られたのではということです。
櫛や鏡が彫られていたことから、ケルトは母系社会だった可能性もあり、ヨーロッパはどこも父系社会なのでまた面白いところです。
クラス2になると、シンボルマークの他に、ケルト模様や十字架が描かれるようになります。ピクトがキリスト教に改宗した辺りのものと考えられています。
クラス3はシンボルマークが消えて、馬上の王や兵士が描かれ、十字架も線刻から立体的なものになります。これはほぼキリスト教に改宗した9世紀頃のものと考えられます。
やがて、アルバ王国の誕生により、ピクトストーンは彫られなくなってしまいました。
ピクト固有の文化が、スコット族やキリスト教の影響を受け、アイデンティティを失っていったのだそうです。
全ては仮説に過ぎないらしいのですが、とっても気になりますね。ピクトストーン。
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