「雨が降ろうが 風が吹こうが 月日は流れ 私は残る」
好きな言葉だが、一体誰が言ったのかは忘れてしまっているし、それを調べようとも思っていない
「人生には雨風のような困難があっても、時間が解決させてくれる」
とも取れるし
「失った何かを取り返せず、自分だけ残ってしまう」
みたいな嘆きの節かもしれない
ということは、ひとつの言葉として存在するのは危険で、しかし本当の意味を突き止めてしまったら、言葉自体の輝きが損なわれてしまうような気がする
それなのに私は、どうしてもこの言葉を思い出す度、樽に眠るウイスキーを想像してしまう
・・・
ことで有名な若造です
いえ、まがりなりにもBarのマスターのブログですからね、お勉強ばかりしてないで日々の雑感なども書いてみようと思ったわけです
俗に暇つぶしとも言います(やることは山ほどあるはず・・・汗)
冒頭の文と、そのうちリンクする予定で最近ふと思ったことを書いてみます
注意:ここから先「排便」という言葉が5回出てきます。類似の言葉も数回でてきます
昨日鍵を忘れて家と店を数往復し、猛烈な便意を催したとき、焦りと不安からか、コンビニまでは異様に遠く感じました
排便を我慢しながらはや歩きとも駆け足とも取れない足取りで目的地を目指しているとき、私は無事に用を足し終え、スッキリした顔の自分の姿を想像していました
目的は、「排便をすること」なのにです
そして今、排便がしたかったという話をしているにも関わらず、その目的については端折ろうとしている私がいます
なんとクダラナイ話(いや、下した話なのですが・・)だろうと自分でも思うのですが・・
時折このような戦いを我が肉体から挑まれて(まさに自分との戦い!)その都度勝利してきたのだから、今回も大丈夫なはずだと考えながら。
そして、いざ勝利してしまうと、さっきまでの苦しみは何だったんだと思えてきます
すると、過去の排便を我慢していた自分と、排便を終えスッキリした自分の連続性、同一性をどうしても説明できないのです
なので、自分が寝ているときに他者に同じ時間が流れていることも理解しかねます(もちろん知ってはいますが)
Barでもそうで、「ゆっくりした」と私が思っていても「ゆっくりできなかったでしょ」と言われることもあるし、その逆もあります。斜めもあります
ということは私は時間が一定に流れていることに疑いを持っていることになる?
そもそも現在とかいう言葉を感覚でなく明確に説明するのに最も説得力があるのは、相対的に比べることではないでしょうか
異なる様相を持つ時間で私たちが知覚し得るものは、具体的に言えば過去でしょう
現在と過去を比べるにあたり、事実だけでは十分でなく、過去を図のように思い浮かべる必要があります
そして、私たちは今起こっていることと、今思い起こしていることが同時であるという判断を相対的に得て、初めて現在を現在として直覚できるのではないでしょうか。
そして思い起こすことは副産物的に、私たちの同一性をも保証します。
何故ならそれが成立する為には、「私は○○をした、と私は思い出している」という文章の、二人の私が、時間様相を異にしているにもかかわらず同一である、ということが積極的に意味されていなければならないからです(多分)
そーしーてー、私はこれを自覚していないので疑わしく思うわけです
時間の連続性、同一性については理解できないまま、今日も寝ていくのでしょうが、大体において目的のひとつ先のことをしようとしているのはなんとなくわかりました
これが多くの人に当てはまるなら、ウイスキーを仕込んでいるときには出来上がりのウイスキーを想像しているのでしょうか(もしくは、晩御飯とか、お休みのことかも・・ここでは抜かします)
だとしたら、その仕込まれたウイスキーが世に出るのは平均でも10年くらいだとして、10年間思い続けることの難しさ(肉体的にも精神的にも)を考えると、当人だけでウイスキーの誕生までの軌跡を見届けるのはかなり難しいと思います
ということは、ある程度自分の意思や希望を他者の預けなくてはなりません。
簡単そうですが、例えばマティーニを作る時に、Aさんがジンとベルモットを注いでBさんがステアをして作り上げることは結構難しいことだと思います
そこに自然の恵みとかが参入してくると、もう作るとかのステージではないような気がします
そしてそれが、違う時代を生きる私たち、遠い地の私たちの元へ届くのですから時間の連続性と同一性も理解できない私にはただただ凄いの言葉に尽きるわけです。時間軸に空間軸が加わりますし
とにかく、そんな親戚の親戚のそのまた親戚の・・・を何十回も繰り返さねば関連付けられないような液体から、こんなにアムールを貰い、アモーレできることってすごいことだと思うのですー
この幸せモン!自分!
#WPへの道