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静岡の御大の方々からの伝言

BAR NO'AGEには、その名の通り様々な年代のお客様がカウンターにすわり、限られた時間とお酒を楽しみにおいでいただいている。

 

年代ごとに違う話題、恋愛、悩みなど、その時間の使い方は様々だ。

 

バーテンダーという仕事をしていると、カウンターでポツリポツリと語られる何気無い話も酒のつまみになる。

 

今日は、先日お越しになられた老紳士の方との静岡の歴史についての話題に少しだけ語らせてもらおうと思う。

 

その方が語られた話は、ご自身の戦争体験のお話だった。

 

終戦記念日は過ぎてしまったが、その時を過ごされた方にとっては関係ないのでしょう。

 

私は静岡市の出身ではないので、この街の歴史については疎い。

 

だからこそ、少し話の内容に驚きを覚えた。

 

テレビや歴史小説、映画などで得た知識とは違う老紳士が過ごした日々。

 

静岡大火という災難があった時の話、そして空襲によって焼き出された人々の凄惨な描写。私のお店が構える七間町にも多くの防空壕があったらしく、空襲時には多くの方がそこに逃げ込んだという。

 

しかしご存知の通り爆弾からの爆風や衝撃から身を守ることはできても、焼夷弾という悪魔が降り注いだ時は防空壕が一気にかまどとなってしまうのだと老紳士は言う。

 

安倍川や大浜海岸の方面に逃げた方は助かった人々が多かったという。

 

私も歴史小説が好きで、その時代の情景を少しながらも知っていたが、老紳士の口から聞く記憶というものは、私の浅はかな知識を凌駕してしまう。

 

静岡市の街中一面が焼け野原となり、この辺りから海が見えたと老紳士は語る。

 

そして終戦後、多くの焼夷弾という悪魔が残した不発弾は残された市民にとっての燃料となったとも聞いた。

 

焼夷弾で破裂した金属などを叩いてフライパンにして売って廻っていた人もいたり、不発弾の信管を抜いて中に入っているガソリンを日常の燃料としてドラム缶のお風呂を沸かしたりしていたという。

 

なんとも逞しい日本人の姿がそこにはあったと思う。

 

そして終戦後からの復興、そして高度成長期。

 

静岡の街づくりは、過去の体験から防火の街として区画整理をされという。

青葉通りと呼ばれる緑地公園は実は防火帯として造られている事はどれだけの人が知っているのでしょうか?

 

今ではこの青葉通りが人々の動線を絶っているとも言われているが、老紳士からの言葉により今の静岡市の街づくりの意味を知ることが出来た。

 

老紳士はその後の静岡の盛り場の話もしてくれたが、少し長くなるのでこの辺で終わらせることとしよう。

 

バーには、このような会話によって繋がれる街の歴史や先人の体験を酒と共に聞くことができる場でもあるかもしれない。

 

その時代のウイスキーやその時代に流行ったカクテルと共に世代を超えて混じり合う時間、できればそんな時間をこれからもご提供していきたいと思った大切な出会いと時間でした。

 

P.s : 少し堅い文章となりましたが、たまにはこういう形も・・・。

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