おあつぅございますぅ~。
ようやく東海地方に梅雨明け宣言が去れました。
で・・・いきなりこの暑さ!オイオイオイオイ。
寝苦しい時間を過ごしている夜型バー・テンダーです・・・。
皆様も、お体はご自愛くださいね。
まぁ梅雨明け宣言はともかくとして、スポーツ界では石川亮君が頑張ってますね~。やはりすごいよ!彼は!
という報道を聞いていた次の瞬間僕の気持ちはいい気に梅雨に逆戻り・・・。
子供の頃、憧れていた「フジヤマのトビウオ」こと、古橋広之進さんの訃報がテレビの画像に出てきた・・・。
幼少時代から水泳に熱中していた頃、恥ずかしながら活字が苦手だった子供の僕が始めて読みきった本が「フジヤマのトビウオ」という本。
子供向けでしたが、親が買ってきてくれのを今でも覚えております。
当時は、彼の努力や精神力に対して大変に勇気付けられたものです。
そんな彼が、世界水泳の視察に来ていたローマで死去していたというニュースには大変に驚きました。
生涯、水泳に生きてスポーツの発展のために尽力をしてきた氏にとってらしい最後だったのではないでしょうか。
時間が過ぎているということを感じる。でもフジヤマのトビウオはいつまでも僕の中ではヒーローであり続けると思います。
今は安らかなる眠りと、ありがとうございました!という言葉を捧げます。
お疲れ様でした。心よりご冥福をお祈りいたします。
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自由形泳者として世界新記録を連発して戦後の荒廃期の光明となり、「フジヤマのトビウオ」の異名を取った日本オリンピック委員会(JOC)元会長、日本水泳連盟元会長の古橋広之進(ふるはし・ひろのしん)さんが2日、世界水泳選手権が開かれているローマ市内のホテルで亡くなった。80歳だった。
日本水泳連盟によると、死亡推定時刻は2日午前8時。検視したイタリアの医師は「自然死」と診断し、日本選手団の医師は「午前10時半にベッドで倒れており、(死因は)急性心不全とみられる」と話した。
古橋さんは国際水泳連盟副会長として会議出席と世界選手権の視察のためローマに滞在していた。
古橋さんは1928年、静岡県雄踏町(現浜松市)生まれ。旧制浜松二中、日大を通じ、自由形泳者として活躍した。戦時中の勤労動員で左手中指の第1関節から先を失ったが右腕と足のけりを強化することでカバーし、47年の日本選手権四百メートル自由形で4分38秒4の世界新を出したのをはじめ八百メートル、千五百メートルなどの種目で合計33回も世界新をマーク。特に49年にロサンゼルスで開かれた全米選手権に招かれ、次々に世界記録を塗り替えた際には米国メディアに「フジヤマのトビウオ」と呼ばれて称賛された。
敗戦後のショックに打ちひしがれていた国民に勇気と誇りを与えたが、最盛期の48年に行われたロンドン五輪に日本は招かれなかった。唯一の五輪出場となった52年ヘルシンキ大会では、周囲から金メダル獲得を期待されながらも四百メートル8位と敗れ「悲運の泳者」とも呼ばれた。
現役引退後は「水の心が分かるまで泳げ」をモットーに、日本の競泳陣強化の陣頭指揮を執り、85年に日本水泳連盟会長に就任。アジア水泳連盟会長も務める一方で、90年にはJOC会長に選ばれ、99年3月に退任するまで、98年2月の長野冬季五輪を成功に導くなどアマチュアスポーツの振興に尽くした。昨年10月には、五輪に出場した競技者としては初めて文化勲章を受章した。
母校・日大の文理学部教授としても98年9月の定年まで、現場で指導にあたった。
#バーテンダーの独り言