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伊福部 昭@酒席二題。

ニューグランドホテルのバー。
チェレブニン賞を受けた翌昭和11(1936)年8月ごろ、ピアニスト兼作曲家のアレキサンダー・チェレブニンが日本に来ました。北海道厚岸にいる僕に「会って話がしたい」と連絡があった。こっちも「待ってました」と喜んだんですが、何分旅費が乏しい。ところが「そんなの気にするな。宿賃は出す」というんですね。じゃありがたく、とチェレブニンのいる横浜に行ったわけです。
会ってみると、チェレプニンは大柄で立派な人でした。授業料もとらずに、作曲法や管弦楽法を教えてくれました。1ヶ月ほど居たんじゃないでしょうか。
人に師事して音楽の直接指導を受けたのは、後にも先にもこの時だけです。「何の恩返しも出来ないので作品を献上する」といったら「それが一番いい」といってくれました。
 (北海道新聞「私の中の歴史」(1985年)のインタビューより)

当時22歳の伊福部昭(以下、敬称略)の宿は、横浜山手町にあったブラッフホテル。
チェレプニンは、夕方になると伊福部をニューグランドホテルのバーへ連れだして、「古来、酒を飲まずに歴史を創った男はいない、あんたは酒が飲めるからコンポーザーになれる」と励ました。
当時、ニューグランドに勤める日本人バーテンダーは誰だったのだろう?

翌年、チェレプニン夫妻へ献上した曲が、吹雪のヒュッテで作曲した「土俗的三連画」



円谷英二との出会い。
昭和23年、東映映画「俺は用心棒」で知り合いとなった月形龍之介さんと二人で京都撮影所の近くにある小料理屋の二階で炬燵で酒を汲みかわしていると不意に客人が現れた。月形さんは「又、貰い酒か」といやみを言ったが、客人は別に気をとめる風もなく、ニコニコとして私達の酒席に加わり、甚だ瓢逸、洒脱な話をし延々と大飲したのであった。

初対面だった二人を月形が映画人同士で既知の仲と思い込んでその場で紹介しなかったこと、その後も名前を知らないまま円谷と飲み交わしたことを、伊福部はインタビューで語っている。

その客人は、言うならば不遇の時代とでも言うのであろうか、どの映画会社にも所属していないような話ぶりであった。映画に関係のある人ということは分かったが、仕事も名前も分からなかった。
それから5年後、東宝で「ゴジラ」の打ち合せの時、特撮監督円谷英二として現れたのがこの客人であった。二人とも、その奇遇に驚いたのであった。

伊福部は、再会の場を「ゴジラ」制作発表記者会見のひな壇上だったと語っている。

円谷 英二(つぶらやえいじ。明治34(1901)年7月7日 – 昭和45(1970)年1月25日)
大正8(1919)年、映画界入り。撮影技師、映画監督。
昭和12(1937)年、東宝設立により入社。
昭和17年、特撮監督として、戦闘シーンに記録映像を使わず、ミニチュアワークスと特撮のみで撮影した「ハワイ・マレー沖海戦」が大ヒット。
戦後、接収した映画を観た連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、実写と疑わなかったという。
昭和23年、「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、重役陣ともども東宝を公職追放
昭和27年、公職追放の解除を受け、東宝に復帰。

二人の出会いは、円谷公職追放されて東宝を離れていた時期である。

特撮監督の円谷さんは最終のラッシュになるまで、特撮シーンは全く誰にも見せない人で、ラッシュの時も特撮の部分だけ白くぬいておくということを平気でやるのであった。
ラッシュの時、画面の山頂を指さして、「あそこの頂きからグワーという感じでゴジラが顔だけ出すんだよ」なぞと言って私達を煙にまくのであった。これがゴジラの最初の登場であるが、音楽の書きようがない。
とにかく、とほうもなく巨大で凶悪な爬虫類であるという以外、何の手掛かりもないままに曲を書かねばならなかった。
~「東宝特撮映画全史」(1983年)~より。

実は円谷は、ゴジラの着ぐるみに入った俳優中島春雄と、京都の酒席以来、お互いに気心が知れて全く気兼ねのなくなった伊福部だけには、ゴジラの写ったラッシュを見せていたという。

円谷英二の三男によると、当時の東宝を代表する二大監督として、黒澤明とは少なからず意識し合う仲で、両人とも互いの作品の試写は必ず観ていた。
「ゴジラ」では、黒澤円谷「今度のあれはなかなか良かったよ」と声をかけた逸話が残っている。

#音を楽しむ!

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