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神谷傳兵衛(18) 独創のぶどう園経営。

神谷傳兵衛シャトー・カミヤの経営は独創的なものであった。






馬上は神谷伝兵衛、正面左手の机に座る神谷伝蔵

ぶどう園でその栽培に従事し、すぐれたぶどう実をつくりだす園丁には、定勤の園丁と見習の園丁補、それに臨時雇の3種を設けたが、園丁の採用資格要件は、
(1) なるべく地元あるいは近郷の居住者で、身体強健であること
(2) 必ず妻帯者で、夫婦ともに従事できる者であること
(3) 採用当初は、一定の期間園丁見習として働くこと

の3カ条であった。
妻帯者であれば永続できること、共かせぎによって経済的に安定できることなどをねらったものであった。
当時の園丁の給料は、一等から五等の区分によって日給1円から5円までの間で支給されていた。したがって最低の日給でも夫婦二人分の給与となり、質素であれば十分に生活は可能である。このことが第一のねらいであった。



第二は、一種の請負制度を確立するためであった。この請負制度とは、ぶどう園を一定の区画に分けて、3町歩を夫婦一組の園丁に担当させ、人件費(給与)の支給増収分の買上げを行なうというものであった。要する肥料その他栽培に必要な器具、材料はすべて園主から供給され、事実上園丁に支給される人件費は年間480円であった。
増収分の歩合については、1反平均100貫匁(*)の標準以上に達すれば、その増収分を1貫30銭で買上げるというものであった。収穫は平均150貫匁程度であったというから、その歩合は50貫の収穫分15円となり、園丁たちにとっては大きな魅力となったと考えられる。これによって園丁たちは、担当区域に責任をとり、増収への意欲をもってぶどう栽培に努力を傾けたことはいうまでもない。

(*)1町歩=10反、1貫匁=3.75㎏。単純計算で3町歩の買上げ額は450円。



傳兵衛は、園の資本のうち10分の4の持株を園丁に与えた。もちろんこれは、売買質入禁止で退職時に自然消滅するが、従事中は1人の株主として園経営の発言権や利益配当が与えられた。
これに加え園丁の研究会を設けた。園長や技師、園丁補も出席させ、すべて同等の発言権を与えて提案討議を行なった。園に利益があると考えることは遠慮なく提案し、これを全員で討議して決め、決定したことは必ず実行するという会であった。ここで提案したことが実行の結果良好であったときは、褒賞として持株の増加となる。持ち株の資格がない者には相応の賞金が与えられた。12歳の少年は、薬剤散布の円筒型容器に工夫を凝らし、以降これは実際に使用されている。また、ぶどう樹の添木の取付方を工夫した金沢某は、金沢式添木と命名されて高く評価されている。
この研究会はまた人材登用の場ともなり、優秀な人材には学資を与えて勉強させ、その成績によっては専門教育を受ける道も開いた。
人間味あるれる傳兵衛の独創的なすぐれた経営手腕といわねばならない。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 特別展「カミヤの至宝」 (平成14年10月20日 合同酒精発行のカタログ)

#神谷酒造・合同酒精

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