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神谷傳兵衛(25) 合同酒精と神谷酒造の合流。

神谷酒造は、大正13(1924)年旭川工場を譲渡した資金で、関東大震災による焼失工場の本所工場や雷門の旧本店ビル(神谷バー)を再建し、以来本所工場牛久工場(シャトー・カミヤ)その他でアルコール焼酎合成清酒および葡萄酒電気ブランなど伝統のある製品を製造していた。

昭和24(1949)年6月、酒類公団の廃止に伴い自由取引時代が開け、25年4月からは洋酒における一切の統制が外された。
ここで、神谷は他社と違う一つのハンディキャップに直面する。それは明治以来同社の看板商品である蜂ブドー酒の取引体制であった。
問題の販売は明治初期以来、日本橋本町の近藤利兵衛商店が総代理店として一手に扱ってきた。
蜂のマークは神谷近藤の共有であり、一方は製造部、他方は営業部ともいうべき体制で完全に分離していた。
それが戦時中の卸機関の整理統合により、近藤商店(近藤商事㈱と改称)蜂ブドー酒による営業を中止、一方では倉庫業、不動産業などに従ったが、終戦後の空白期に酒類の卸を廃業してしまったのである。
こうして昭和24(1949)年の自由化に伴い神谷酒造は、明治以来はじめて蜂ブドー酒の営業部を新設した。
近藤の営業権は神谷に移され、近藤利郎三代近藤利兵衛の息)が神谷酒造の取締役に推された。

「蜂」の声価は全国的に広がって、27、8年と活況がつづいた。株主へは3割の配当を行なった。
しかし、この発展は一方で急速に経営内容を圧迫しはじめた。原料のブドー果の値上りと共に買付け資金の増大、売掛金の著増とサイトの延び、代金回収に先がけての税金の月払等々とコストの増大は借入金の枠を、わずかな間に大幅に広げていった。
さらに神谷酒造の場合は資本構成上、全く個人経営といってよく株式も上場されていなかった。企業の膨張につれて増資をするにもその点制約があった。
昭和30(1955)年秋、神谷酒造から合同酒精に対し事業資金融通に関する申入れが行なわれた。両社の宿縁を考えてもその窮状を見逃すわけにはいかなかった。31年初めには援助を約し、合同酒精関係から2,500万円の資金を提供して5月神谷は資本金を5,000万円に増資した。
神谷酒造との共同経営に当って、合同酒精より常勤役員が加わり、蜂ブドー酒電気ブランその他の製造、販売面の合理化と充実に協力した。



三代神谷傳兵衛(二代目の長男)

そして昭和35年の春を迎えた。神谷酒造合同酒精との提携後、業績向上し内容も安定しつつあったが、なお将来を展望するとき、市場の要求する新製品を開発し、いっそうの増産をはかるには工場の生産規模、施設が限界に達しており、新たな段階にさしかかっていることは両社の等しく認めるところであった。
いうまでもなく、両社はもともと初代神谷傳兵衛が生んだ葡萄酒と酒精という二つの製品を育て発展した事業体であるから、困難な場合に助け合い、時いたり一体となることはむしろ当然の帰結であった。
こうして35年5月18日、合同酒精石家覚治神谷酒造三代神谷傳兵衛両代表によって合併契約書の交換が行なわれた。

昭和35(1960)年
10月1日、合同酒精神谷酒造が対等合併。

大正13(1924)年10月30日、神谷から旭川工場が分離独立し合同酒精となってから、36年ぶりの両社の合流であった。
神谷本所工場は、吾妻橋洋酒工場と名称を変えた。

【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)

#神谷酒造・合同酒精

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