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神谷傳兵衛(21) 神谷バー。

明治45(1912)年 (傳兵衛56歳)
4月10日、浅草花川戸町に神谷バーを開店。



明治45年4月撮影。

「合同酒精社史」より、
地下鉄銀座線の浅草駅から地上に出ると浅草松屋デパートと通りを隔てて神谷バーがある。
現住所は東京都台東区浅草1丁目1番地の1
明治13(1880)年神谷「みかはや銘酒店」を開業し、裏手で蜂印香竄葡萄酒その他を製造したゆかりの一角である。当時は観音さまが近いとはいえ、仲店通りさえ軒の低い粗末な家がまばらに並んでいて、わずかに十二軒茶屋が縁日にかなりの繁昌を見せるくらいだったが、明治18(1885)年末に一帯が煉瓦造りになって、人の往来も急増した。
神谷の店は一部が、いまでいうPR酒場になっていて葡萄酒をはじめ、洋酒の一杯売りで浅草の名物になった。
この花川戸の角から二軒目の縄のれん式洋酒軽便ホールは明治45年4月、面目を一新して西洋式のバーに変った。
看板に、「花川戸神谷傳兵衛酒類売場」の文字と、D.KAMIYA BARという横文字が並んだ。
嗣子傳蔵のフランス帰りからしばらくたっていたが、神谷は明治43(1910)年欧米一周旅行を果たしていたから、帰朝後その洋酒ホールを見聞にもとづいて最新式に改造したのである。

一度扉を押して内部に足を運べば、整然と並んだ片側12人ずつの大理石のテーブルが5列、見渡すところ赤い酒、青い酒をあおる紳士あり、デンキに舌鼓うつ職人ありで、極めて開放的かつ平民的な空気が室内に充満していた。
正面には丸まげの女主人が二人の青年とともに、自ら電気ブランデーウイスキーベルモットなど客の注文につれて注ぎ出し、これを配る給仕はいずれも紅顔の美少年、強い酒は客1人につき3杯以上は出さないことになっている。肴は豆腐、煮豆、こんにゃくの3種に限り、どこまでも簡単に酔えるようなしかけになっていた。

酔客の心地よいざわめきが聞こえてくるような文章である。

「カミヤの至宝」より、
大正時代に入って大流行する「カフェー」にも影響されることなく酒文化が主流である姿勢はくずさなかった。





この建物は大正10(1921)年に、鉄筋のビルに生まれ変って、神谷バーはさらに、浅草名物として有名になった。
浅草六区の繁昌とともに、興行帰りや吉原行きの粋人、文士連中が口から口へと伝えたからである。
なかでも神谷バーの名を高めたのが、電気ブランデーという、聞くからに強そうな洋酒であった。甘口で複雑な味わいを持ち、昭和のはじめまでアルコール度数は45度であった。
時代が移って、電気ブランデー電気ブランとなり、さらにデンキブランとしてアルコール度数もついに30度になった。



生ビールとデンキブラン。
この二つは相思相愛。
交互に飲めば、非常に美味しい。
どちらかだけでは、もの足りない。



カミヤ流だそうな。

【参考図書】
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行、非売品)
■ 特別展「カミヤの至宝」 (平成14年10月20日 合同酒精発行のカタログ)

#神谷酒造・合同酒精

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