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神谷傳兵衛(12) 電気ブラン。

明治15(1882)年 (傳兵衛26歳)
夏、輸入アルコールを原料とした速成ブランデーを発売。



「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
明治15年の初夏、芝、神田に発生したコレラは広く東京府下に流行した。政府は、その撲滅に腐心するとともに、その予防のため、6月23日船舶検査規則を定めた。ついで7月17日には土方久元を総理とする検疫局を設け、コレラまん延防止に努めた。
当時、傳兵衛は花川戸で「みかはや銘酒店」を開業してから2年目、蜂印滋養香竄葡萄酒を発売してから1年目であった。このころ、蜂印滋養香竄葡萄酒のかたわら輸入アルコールを原料とした速成ブランデーも製造していた。これも比較的評判がよく、売れ行きは上々であった。そのうえコレラが流行すると、速成ブランデーがその予防に効能があるといううわさが立ち、たちまちこれに人気が集まり、傳兵衛も驚くほど大いに売れた。

「合同酒精社史」より、一部引用。
神谷バーの名を高めたのが、電気ブランデーという、聞くからに強烈そうな洋酒であった。
明治15年神谷速成ブランデーを発売したが、東京に電気の供給会社「東京電灯会社」が設立されたのが明治16年である。神谷速成ブランデーを更に改良し、その即効性にあやかってすばやく新語の「電気」を冠したのであろう。
電気ブランデーは、酒精含有飲料に属し、生ブドー酒、ベルモット、ブランデーなどが入って、甘口で複雑な味わいを持ち、昭和のはじめまでアルコール度数は45度であった。すなわちデンキ1杯(90ミリリットル入のコップ)が清酒の凡そ2合に匹敵した。その頃の神谷バーの会計が、デンキ2杯(1杯12銭)に豆腐1皿(5銭)の合計29銭ナリであったという。その繁盛ぶりも想像に難くはない。
時代が移って、電気ブランデー電気ブランになり、さらにデンキブランとしてアルコール度数もついに30度になったが、浅草名物はまず下町に伸び、昭和33(1958)年頃は全国主要都市にも見られるようになった。
度数の下降に伴い中味の組成も変ったが、いまだに独特のベルモット風の味を支持するファンがあって製造を停止することができない。



現在、デンキブランは40度(左)と30度の2種類が販売されている。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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