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神谷傳兵衛(10) 近藤利兵衛。

神谷傳兵衛は、洋酒問屋の近藤利兵衛との出会う。
傳兵衛は、総代理店として近藤利兵衛に販売を一手に任せ、自らは製造に専念した。



明治26年、近藤利兵衛(34)(左)と神谷傳兵衛(37)
卓上には、電気ブランデー(左)と蜂印香竄葡萄酒

「合同酒精社史」より、一部引用。
神谷香竄葡萄酒の販売に思案中、来店したのが香取進之助という兄桂助の友人であった。
香取はこの葡萄酒を賞味し、将来性を予見して神谷に自信を与え、知己の近藤利兵衛を紹介した。近藤は栃木県佐野の出身で日本橋区本町2丁目に洋酒販売店をもつ、神谷より3歳下の好青年である。
神谷は自らペーパー(ラベル)を印刷し、粗末な瓶装を施し、2ダースを近藤のもとへ届けたのが、最初の結びつきであった。
近藤利兵衛神谷の総代理店として、販売を一手に引受け、当時広告界で高名な守田治兵衛に依頼して、薬用飲料の名のもとに新聞広告、看板。引札(チラシ)と全国的に盛んな広告活動をはじめた。
薬用飲料とは神谷自身の体験にもとづく。
蜂印香竄葡萄酒の販路はしだいに拡大し、内地はもちろん朝鮮、支那、南洋方面にまで輸出されるようになった。
こうして、蜂印香竄葡萄酒は一世を風びし、日本における葡萄酒の代表ともいうべき声価を得た。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
傳兵衛が花川戸町ににごり酒の一杯屋を開店したころ、国内での洋酒の需要はかなり高くなっていた。なかでもぶどう酒は、輸入品中の最高位を占めた。このような状況を見て、傳兵衛は一刻も早くぶどう酒製造をわが手で起こしたいもの、と考えた。
しかし、それにはかなりの準備期間が必要であった。だが、にごり酒の一杯売は、開業してから1年ほどを経過した時点で、初期の目標以上に繁盛し、洋酒製造を起こす資本は十分に蓄積できていた。実態についての問題は、日本人の口に合うぶどう酒をどのように造るかであった。
当時の輸入ぶどう酒は味がにが渋く、日本人には適しないものであった。
そこで傳兵衛は、かねて横浜のフレッレ商会で学んだ洋酒製造法を基礎に、日本人の口に合う甘いぶどう酒の再製を考えた。まもなく花川戸町の自宅に製造場を設け、それに全力を傾けて独特のぶどう酒を造り出すことに成功した。売り出してみると、この神谷製ぶどう酒は口触りがよいので、たちまち評判になった。
そのころの傳兵衛は、盲じまの一重になわ帯を締め、昼夜醸造がまの前で温度を凝視し連日徹夜で、寝室にも入らなかったという。以降も傳兵衛は、使用人たちとともににごり酒や洋酒の一杯売とぶどう酒再製に力を入れたために、その評判はますますあがり、他にも模造品が出回るほどであった。
ぶどう酒を入れる容器は、草創期のことであったから、はじめ輸入したイギリスパース会社のビールあきびんを買い集めてこれに当てていたが、これには、親の恩を忘れぬために父兵助の雅号「香竄」(こうざん)の二字を記したレッテルをはった。



当時の広告。左端に「売捌元・洋酒問屋・近藤利兵衛」の文字。

「合同酒精社史」より。
蜂ブドー酒の販売は明治初期以来、日本橋本町の近藤利兵衛商店が扱ってきた。
蜂のマーク神谷近藤の共有であり、一方は製造部、他方は営業部ともいうべき体制で完全に分離していた。製品は樽詰(1石2斗入)のまま近藤商店瓶詰工場(京橋区桜橋)に届けられ、ここで全国の特約店、例えば関東では国分商店鈴木洋酒店などへ、関西では大阪の松下商店その他各地へ販売された。また近藤は世評に高い広告宣伝活動も自らの手で行なっていた。
もっとも、瓶詰作業は昭和5(1930)年から近藤商店の都合で神谷本所工場に移されたが、この時でも近藤神谷に対して詰賃を払うというほど両者の分担がハッキリしていた。
それが戦時中の卸機関の整理統合により、近藤商店近藤商事㈱と改称)は蜂ブドー酒による営業を中止、一方では倉庫業、不動産業などに従ったが、終戦後の空白期に酒類の卸を廃業してしまったのである。
こうして昭和24(1949)年の自由化に伴い神谷酒造は、明治以来はじめて蜂ブドー酒営業部を新設した。

神谷製造近藤営業(販売)という分業体制は、創業時から終戦後まで60年以上続いたのである。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
■ 合同酒精社史 (合同酒精社史編纂委員会。昭和45年12月25日発行)

#神谷酒造・合同酒精

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