明治6(1873)年 (傳兵衛17歳)
横浜外国人居留地フレッレ商会に労働者として入り洋酒製造法を修める。
「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より、一部を引用)
横浜の外国人居留地には、フランス人の経営する混成酒製造のフレッレ商会があった。この商会の醸造場で、たまたま一人の労働者の募集が行われていた。そこで松太郎は、早速同商会を訪れ、醸造場労働者として雇い入れてもらったのである。
ここに就職すると、彼は持前の性格で忠実に働いた。たちまち経営主のフランス人に認められ、わずかの間に特別の寵愛を受けるまでにいたった。
ある日、松太郎の運命を決める出来事が起こる。
ところがある日突然腹部がはげしく痛む病気にかかり、医師にみてもらうと、
「手術は難しい。ただ自然に回復する時期を待つほかはあるまい」
という診断であった。これを聞いた松太郎は大いに失望し、それ以後日々に衰弱して、ついに病状は命にかかわるまでの容態に陥った。
経営主のフランス人は、これを知って松太郎を見舞い、持参したぶどう酒を飲ませた。松太郎がそれを一口飲むと、たちまち気分がさわやかになり、病苦はやわらげられていくようであった。一本のぶどう酒を毎日少しずつ引き続き飲用すると次第に元気が出て、やがて病気はすっかり治ってしまった。この体験で、松太郎はぶどう酒のすごい滋養効果を実をもって知ったのである。
そこで松太郎は、ぶどう酒についてよくよく考えてみた。このように滋養効果のあるぶどう酒は、一般に日本人には飲用されていない。それはほとんど外国からの輸入品で、きわめて高価だから入手が困難であるのだ。日本人のだれもが飲めるようなぶどう酒の国内醸造が必要である。自分は8歳のとき日本酒の酒造家を志し、今日にいたっているが、ここで日本酒から洋酒に転じそれを将来の本業にするのもよいではないか。松太郎はこのように考え、将来の洋酒の国内醸造を決心したのである。
以降松太郎は、醸造場で洋酒製造法を熱心に修業した。ところが3年後、経営主のフランス人が都合によって突然帰国することになってしまった。経営主は、帰国にあたって熱心な松太郎に同行をしきりに勧めたが、外国行きではさすがの松太郎もこれに同意することはできなかった。やむを得ず、その好意に謝し、横浜港の岸壁で経営主を見送った。明治8(1875)年、松太郎19歳のときであった。したがって松太郎がフレッレ商会にあって洋酒醸造法を修業したのは3年間となる。
松太郎がフランス行きを諦めた2年後の明治10年、大日本山梨葡萄酒会社の二人の青年がワイン製造技術取得のためにフランスに留学した。
明治7(1874)年 (18歳)
4月9日、父兵助死去。神谷家の家督相続を行なう。
修業の間に、父が死去したため、松太郎は家督を相続し、神谷傳兵衛を名乗ることとなった。
これからは幼名の松太郎を改め、傳兵衛と表記する。
【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)
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