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神谷傳兵衛(2) 幼年期~生家の没落。

神谷傳兵衛の生家は愛知県の名士で裕福な豪農だった。しかしまもなく没落し、傳兵衛は幼い頃から苦労を重ねた。



安政3(1856)年
2月11日、三河国幡豆郡松木島村(下総国多古藩飛地・村高845石余。現愛知県幡豆郡一色町大字松木島)の神谷兵助六男として生まれる。松太郎と命名される。

「神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者」より引用。
女中のシメがうぶ湯の水を汲むと、井戸のかたわらに今を盛りと咲く白梅が春風に散って桶に落ちた。桶の水を湯にわかし、たらいに移すと、産婆がつかううぶ湯の中の赤ん坊の顔に花びらがついた。
「坊ちゃんは花児(はなご)じゃ花児じゃ」
と女中のシメがはしゃいだ。隣室にいた姉のユキも、
「坊ちゃんは花児じゃ、花の児じゃそうな」
と、笑う。
夜には遠く村芝居の三味の音が響き、さながら松太郎の誕生を祝うかのようであった。

兵助
イシ
長男松太郎早世
次男幸吉早世
三男三之助早世
長女カイ早世
次女ユキ
四男桂助
五男栄次郎早世
六男松太郎(のちの傳兵衛)。
松太郎は六男二女の末っ子に生まれたが、うち5人が早世している。

引用。
居宅は、松木島村の中央にケヤキの一尺角の柱をもって堅牢に建てられた。敷地は、二反四畝(2,376平方メートル)で周囲にはマキの垣がめぐらされ、庭にはエノキや梅の古木が植え込まれた。分与された田畑は三町歩(約3ヘクタール)余り、下男下女をかかえ、父の兵助は昔からの名主長男として「大家さん」の尊称を受け、村の有力者となった。
だが兵助は、自分の家業である農業には一切手を出さなかった。すべて下男に任せ、乗馬を好み、飼禽養魚を楽しんだ。当時この村に俳句や狂歌が流行すると、これにいち早く興味を持ち、俳句会を催した。いわば、多趣味で文人気質の人であった。俳句は「香竄」(こうざん)と号し、この近辺では名人となった。村人は、陰で「何でも好きな兵助さん」と呼び合った。
兵助は多趣味なだけではなく、金銭にもてい淡として、物欲に薄いばかりでなく、正直で慈悲心の深い人でもあった。不幸な人があれば、もてる物のすべてを惜しみなく施してしまった。
このような兵助であったから、さすがの財産も次第に減り、松太郎の幼年期には豪壮な邸宅も人手に渡った。一時は馬屋に住んだり、娘のユキが嫁した品川屋徳太郎方に寄食したりしたのである。

文久元(1861)年 (傳兵衛5歳)
4月、幡豆郡高川原村(現愛知県西尾市高河原町)牧野栄吉(母イシの実家)に寄食し、算術、習字などを修める。

引用。
松太郎の母の名はイシといった。三河国幡豆郡高川原村の豪農牧野栄吉の娘で、17歳のころ8歳年上の神谷兵助へ嫁した。イシの父栄吉は学問もある厳格な儒者的人物であったから、イシもその訓育を受けて、厳格で意思の強固な婦人であった。また、働き者で一通りの女芸にも通じていた。兵助に嫁してからは、夫に忠実で多趣味な夫の行状には一切口をはさまなかったが、そのかわり家事のすべてをさばいていた。しかし、夫の行状は増すばかりで家産は次第に傾き、松太郎の幼年期には三町歩余りの田畑は七畝に減ってしまった。当時、子供は二男一女が夭折し、次女のユキと四男桂助、六男松太郎の三人であった。イシは、次第に家財の減っていくことを見て、三人の子の行末に思い悩んだ。せめて子供だけはすこやかに成長させ将来に備えたいと願った。
兄の桂助は腕白であった。
それにひきかえ、弟の松太郎は柔和であった。いたずらやけんかは一切なく、大勢の子供が群がって遊んでいても家の中に静かに遊んでいるといった性格であった。
イシは、二人の子にはそれぞれの長所がある。それにあった教育を施したいと考えた。
兄の桂助には、小牧の陣屋に通わせて武術の修業をさせた。弟の松太郎には、実家の栄吉に相談し学問の手ほどきを受けさせることにした。
栄吉は、孫のことであったから即刻快諾し、松太郎を引き取って読書、習字、算術などを教えた。性来利発な子であったので、その上達はめざましかった。特に算術に優れ、難問もよく解けるようになっていた。

【参考図書】
■ 神谷伝兵衛~牛久シャトーの創設者 (鈴木光夫著。昭和61年1月15日発行、筑波書林刊)

#神谷酒造・合同酒精

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