昭和30年代に、メルシャン、オーシャンを相次いで買収する昭和酒造(のちの三楽酒造)の設立から終戦までの話である。
昭和9(1934)年
7月10日
鈴木忠治名義でアルコール製造免許を取得。
12月4日
鈴木忠治、昭和酒造(のちの三楽酒造)を設立。
昭和6(1931)年、味の素の創業者鈴木三郎助が他界する。
そのあとをついで二代目社長に就任したのが、弟の鈴木忠治であった。
忠治は、味の素の製造過程で出る廃液(大豆たんぱく分離液など)からアルコールと合成清酒を製造するため、昭和酒造を起こした。
昭和10(1935)年
4月11日
川崎工場竣工(敷地4,017坪)。第一工場としてアルコールの製造開始。
5月30日
酒造免許取得。
免許書には「人工清酒、ブランデー、ウヰスキー、甘味葡萄酒、ペパーミント製造」とある。
大口販売先の確保のためにも、燃料用採用促進を進めた。すなわち創業後早々から、商工省の燃料研究所や燃料用アルコールの実験に着手した陸軍航空研究所にたいし製品の試用を乞い、連日のように航空本部を訪ね、燃料用として川崎工場製品の有用性を説明した。こうした努力はやがて報いられ、翌11年2月頃になって陸軍航空本部から練習機の燃料用に30ドラム(6kl)の受注を受けた。これを皮切りにひきつづき注文を受けるようになった。ついで海軍からも徳山の燃料廠において内火艇用の燃料として採用され、ようやく昭和11年の夏以降は陸海軍で燃料用に販路が得られるようになった。
昭和12(1937)年
2月
第二工場(合成清酒工場)竣工。
合成清酒工場の用地としては、同じ昭和10年4月に操業開始したばかりのアルコール工場の筋向いに土地3,000坪を取得、第二工場と称された。
第二工場は、第一工場製造の含水アルコールをパイプ輸送して合成清酒を製造するもので、技術自体にはそれほどの困難はなかった。
4月1日
アルコール専売法施行。
4月30日
昭和酒造、専売局から日本で唯一のアルコール製造特許(特別許可)会社に指定される。
7月
日中戦争勃発。
9月1日
合成清酒「三楽」を発売。
三楽は、次の孟子の三楽から命名された。
父母倶存、兄弟無故、一楽也
仰不愧於天、俯不作於人、二楽也
得天下英才而教育之、三楽也
君子、有三楽、而王天下不与存焉
昭和14(1939)年
4月
八代工場竣工。アルコールの製造開始。
10月20日
価格等統制令公布、酒類公定価格となる。
昭和16(1941)年
4月
八代工場、アセトン・ブタノール製造開始。
日華事変の長期化、さらに太平洋戦争への突入と戦局が進むにつれて、米国からの航空燃料輸入の途がとざされ、わが国においては、高オクタン価航空燃料イソオクタンの自給が軍事上きわめて重要となり、その原料としてのブタノールを緊急に増産していく必要があった。
日華事変勃発から2年を経た昭和14年秋になって、当社は陸軍省からアセトン・ブタノールの過去の製造の実験結果を報告するよう要請を受けた。これにたいして、技術スタッフがこれを報告書にまとめ、同省へ提出した。同省ではこの報告書を検討したのち、翌15年春になってアセトン・ブタノールの製造を当社に内命してきた。たまたま八代工場が建設されたところであり、ここに当社は八代工場でアセトン・ブタノールを製造することを意思決定し、同年末から年産1000トンの試験工場の建設に着手した。こうして昭和16年からブタノール生産に本格的に乗り出すことになったのである。
11月26日
昭和農産化工に社名改称。
当社は政府や軍部からの要望をもとに、社名を昭和農産化工株式会社と改称した。この年になると軍需生産力の増強が図られるとともに、このための国内の経済統制もいっそう強化され、「三楽」の製造販売の増大はようやく困難となるに至った。そして当社にたいしては、酒類の生産よりもむしろアルコールやブタノールなど軍需品の生産が重要な役割として期待されるようになった。したがって「昭和酒造」の名称は内外ともにむしろ不適当なものと映ずるようになったのである。
軍需体制化、他の酒造会社も燃料用アルコール類を増産しているが、知る限り社名を変更したのは昭和酒造だけである。
12月8日
太平洋戦争勃発。
軍の命により、フィリピンやジャワでアルコール、満州でブタノールなどの生産を行う。
昭和20(1945)年
8月15日
終戦。
【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
#オーシャン