MENU

オーシャンの系譜(9) 大黒葡萄酒 東京工場跡を歩く。

大正8(1919)年、宮崎光太郎は東京・下落合にぶどう酒工場を新設した。これが後の東京工場の発祥地である(ただし当時の建物は戦災にあって全焼した)。

東京工場の新設当時の住所は、表記の変遷から見て東京府豊多摩郡落合村大字下落合と推察される。
南北に長い敷地には、東から
宮崎光太郎私邸
甲斐産商店東京事務所
瓶詰工場
の順に並んでいた。
当時の主な運送手段が荷馬車だったので、工場内にはトラック置場のほかに、馬の厩舎馬車置場などもあったかも知れない。

宮光園の記録映画(短縮版の6分から7分40秒あたり)に、東京工場の様子が写っている。

勝沼から中央本線で東京へ運ばれた葡萄酒樽は、目白貨物駅に到着。
当時、目白貨物駅山手線の線路と学習院の間の、目白駅旅客ホームより南側(高田馬場駅寄り)にあった。
写真の集合住宅が建つ辺りである。



葡萄酒樽は目白貨物駅で貨車から降ろされて、



荷馬車に積み換え。



目白貨物駅を出る荷馬車。



目白貨物駅があった辺り。



山手線(写真左手)と学習院(右手の森)の間の椿坂を下る荷馬車。(椿坂は、最近命名された呼称だが便宜上使う)



上のシーンに「通る道は今の目白通りだったと思われます」とナレーションが入っているが、間違いだ。
ChinchikoPapa さんが、図面入りで精緻に検証されている。
目白貨物駅を出て、椿坂を下り、突き当たった雑司ヶ谷道を右折して、当時はレンガ造りの山手線ガードを潜り抜け、東京工場へ運んだルートが正解だ。
もっとも容易に目白崖線を上り下りする、最短ルートである。

現在の椿坂



荷馬車は、東京工場に到着。
塀に囲まれた樹木が茂る屋敷が、宮崎邸
手前の洋館は、甲斐産商店東京事務所






トラックで運ばれる葡萄酒樽。



品質を検査し(手前の白衣)、手動ポンプで移しかえて(はっぴを着た奥の二人)、



瓶詰作業。



瓶詰めされた葡萄酒は、木箱詰めされて、



出荷。
右手の建物が、瓶詰工場である。



昭和9(1934)年。
甲斐産商店から、大黒葡萄酒へ社名変更した東京工場の住所表記は、東京市淀橋区下落合一丁目10番地
現在の表記は、東京都新宿区下落合二丁目2番地

戦後はまず戦災で全焼した東京工場を再建し、ここに蒸溜機を据付けてアルコールの生産を開始した。

「ある洋酒作りのひとこま」(関根彰著。平成16年6月24日、たる出版刊)より。
昭和27(1952)年、大黒葡萄酒(現在のメルシャンに合併)でモルト・ウイスキーの製造を開始するとの事で、国税庁醸造研究所の山田正一先生に御紹介と御進言をいただき入社することになり、生涯洋酒製造に身をおくことになった。
醸造研究所の研修生の頃に見学したビール工場や製薬会社の規模やその威容と比較し、当時の洋酒会社は中位の清酒会社に類似する位で、その落差に驚いたのが最初に印象であった。
当時の東京工場は、山手線・目白駅から高田馬場の左手にある学習院の森を通過して神田川の高架を渡る直前の右手の眼下にあった。細長い2階建ての建物アルコール蒸溜塔が目に入り、煙突に大きく「大黒葡萄酒」と書いてあって、十分宣伝にもなっていた。

著者の通勤ルートも、目白駅を出て、椿坂(かつて坂の途中に目白貨物駅があった)を下り、雑司ヶ谷道を右折して、東京工場へ向かっている。
高い建物がなかった昭和27年には、目白駅から東京工場が眼下に見えたのだろう。

山楽50年史に掲載されている「合併当時のオーシャン㈱東京工場の一部」の写真。



背景に目白崖線が写っているので、工場の南東から撮った写真だ。
左端ぎりぎりに、「大黒ブドー酒」と書かれた煙突
その右の高い白い建物で、窓が縦に二列に並んでいるのが、アルコール蒸溜塔だろうか?
さらに右手に、横に細長い2階建ての建物
屋上の手摺りに「Ocean Whisky」、丸い給水槽に「Ocean」と書かれている。
手前には、かまぼこ型をした倉庫のような大きな建物。
写真には写っていないが、奥右方向が目白駅である。

昭和41年、東京工場が東京都の道路建設に伴い閉鎖された経緯は、前回書いた。

跡地は、東京都住宅供給公社「高田馬場住宅」になっていて、南側に面して「新目白通り」が通っている。

【参考図書等】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
■ ある洋酒造りのひとこま (関根彰著。平成16年6月24日、たる出版刊)
■ 甲州市HP

#オーシャン

この記事を書いた人