本格ワイン作りの試み大日本山梨葡萄酒会社は破綻したが、その遺産は受け継がれた。
会社の一員だった宮崎光太郎(以下、敬称略)らが生産設備を引き取り、甲斐産商店を設立。のちに大黒葡萄酒、オーシャンへと発展した。
明治19(1886)年
大日本山梨葡萄酒会社、解散。
宮崎光太郎、土屋龍憲および弟の土屋保幸の3人は、大日本山梨葡萄酒会社の醸造器具類一切を譲り受けて甲斐産葡萄酒醸造場を開設。
30石(5.4キロリットル)あまりを醸造し「大黒天印甲斐産葡萄酒」と命名。「大黒」ブランドが誕生。
■ 宮崎光太郎 (大日本山梨葡萄酒会社の発起人であった市左衛門の長男)、
■ 土屋龍憲 (同じく発起人・勝右衛門の長男。時期不詳だが助二郎または助次郎から龍憲に改名)は、ともに解散した大日本山梨葡萄酒会社で働いていた。
「醸造器具類一切を譲り受けて甲斐産葡萄酒醸造場を開設」とあるが、では醸造所はどこにあったのだろうか?
解散した大日本山梨葡萄酒会社は、雨宮彦兵衛の建家と酒蔵、さらに日本酒の醸造器具を借り受けていた。
宮崎らは醸造器具類一切だけでなく、雨宮の建家と酒蔵もそのまま借り受けて醸造所にした、と推測するのが妥当だろう。
理由は、
1) 後述のように宮崎と土屋が共同事業を打ち切ったのち、醸造所を引き継いだ土屋が建設した龍憲セラーが雨宮彦兵衛の所有地に残っていること、
2) 宮崎はのちに「新たに自宅内に醸造所を建設」しているので、宮崎の所有地ではないこと。
話を先に進める。
揺籃時代のワイン生産が産業としてわが国に定着するか否か、それは醸造技術ももちろん重要であるが、もう一つの鍵は市場すなわちどこに販路を求めるかということであった。
宮崎光太郎らは、遠隔地にあるが大市場の東京を目指す。
明治21(1888)年
販路拡張のため甲斐産商店(東京市日本橋区元大阪町)を開店。
醸造方法のほうも理学や医学方面の学者の指導を受けつつ試験を繰り返し、品質はかなり改良されたが、売行きのほうは依然として思わしくなかった。
この間、試験等に要した費用を含めて経営上の損失はきわめて高額にのぼった。
明治23(1890)年
宮崎と土屋、共同事業を打ち切る。
宮崎は甲斐産商店を、土屋は醸造場のほうを引き継いだ。
土屋は醸造を続け、「マルキ葡萄酒」のブランドで東京の洋酒問屋梶原吉左衛門らを通じて売り出したが、経営はあまり順調ではなかったようである。
現存する「まるき葡萄酒」のことである。
同社HPによると、設立は明治24(1891)年。
現在の「まるき葡萄酒」の所在地は、上述の土屋の「マルキ葡萄酒」があった場所とは異なる。
明治24(1891)年
甲斐産葡萄酒、帝国医科大学の御用命を受ける。
宮崎が「全国公私各病院の薬用に供せられ販路漸く逐って拡張するに至れり」と述べているように、この時代の本格ワインは一般家庭の食卓にのるというよりは、もっぱら薬用として販売されていた。病院等で食前の水薬として患者に渡したものは、ワインを水でうすめたものであった。
また、軍人の功労のあった者が重病にかかった折など天皇よりの見舞としてワイン半ダースが下賜されることもあった。
甲斐産葡萄酒の広告自体が「本品は純粋の生葡萄酒なれば医薬用には最も最適なり」とPRしているほどであった。
明治25(1892)年
宮内庁の御用命を受ける。
宮崎の祝村の自宅周辺に、新たに醸造場を建設(これが現在のメルシャン「ワイン資料館」)。
三楽50年史の上記の記述は間違いである。
正しくは、
明治25年 宮崎の祝村の自宅内に、新たに醸造場を建設。
明治37年 自宅(第一醸造所)から細い道路を隔てた、向いの隣地に第二醸造所を建設(これが現在のメルシャン「ワイン資料館」)。
明治25(1892)年頃から
「大黒天印ブランデー」を製造、販売。
明治27(1894)年頃
醸造石数は3000余石に達し、開設当初の100倍に増加。
明治35(1902)年頃から
甘味ぶどう酒の委託製造、販売に着手。
明治36(1903)年
6月11日
中央本線、甲府まで延伸し開業。
塩山駅、日下部駅(現在の山梨市駅)、石和駅(現在の石和温泉駅)、甲府駅が開業。
中央本線開通以前は、富士川を船(水運)で下り、東海道本線に積替えて東京へ運ばれていた。
明治37(1904)年
第二醸造所が完成。
中央本線開通に伴い流通が便利になり、需要が増大したので、生産能力拡大のために第二醸造所が建設された。
明治38(1905)年
米国より20種類、200本余の苗木を取り寄せて試験栽培を行うなど、原料用葡萄の改良に尽力。
明治39(1906)年
壽屋、向獅子印甘味葡萄酒を発売。
わが国における最初の甘味ぶどう酒は、明治14年に神谷伝兵衛が発売した「蜂印香竄葡萄酒」(現在のハチブドー酒)であるといわれている。
明治39年には鳥井信治郎が向獅子印甘味葡萄酒を発売し、「蜂」と「赤玉」は当時わが国の2大銘柄となったのである。
明治40(1907)年頃から
甘味ぶどう酒の自家製造を始める。
「エビ印甘味葡萄酒」「丸ニ(注)印滋養帝国葡萄酒」「花印スヰトワイン」等の商品名で市場に供給された。
蜂、赤玉が輸入ワインに依存していたのに対し、甲斐産葡萄酒の場合は自家醸造のワインを原料としたところが特徴であった。
もっとも当時は、蜂、赤玉等の「舶来ブドウ酒」という宣伝のほうが効果を発揮するという皮肉な面もあった。
(注)「丸ニ」は、○のなかに「カタカナのニ」。(パソコンに文字(記号)がない)
大正2(1913)年
4月8日
勝沼駅(現在の勝沼ぶどう郷駅)開業。
宮崎葡萄酒醸造所と観光ぶどう園を総称して、宮崎光太郎から頭文字をとって「宮光園」と名付けた。
一般に公開し、一説では写真館も併設されていたらしい。
大正時代になると中央本線を利用して、百人単位の酒類問屋を宮光園へ招いて、醸造所を視察してもらい、ぶどう園で歓迎会を開き、さらに景勝地・昇仙峡を遊覧、夜は湯村温泉に宿泊して接待したという。
宮崎は、宣伝の才にも長けていたようだ。
また勝沼ワイナリーの説明では、手が届く高さに横に棚を張り、そこにぶどうの枝をはわせる栽培方法(吊り棚式)は、宮崎光太郎の考案で、アイデアマンだったとのこと。
大正8(1919)年
ぶどう酒工場(東京下落合。のちの東京工場)を開設。
大正11(1922)年頃から
「M.K印スィートホームウイスキー」、国産シャンペン酒「オーシャン」など製造、販売。
「オーシャン」ブランドが登場。
ブランドとしては、サントリー、ニッカよりも古いのだ。
しかし本格ウイスキーの発売は、戦後まで待つことになる。
昭和4(1929)年
壽屋、「サントリー白札」発売。
昭和9(1934)年
大黒葡萄酒に改組(株式会社)。
大日本果汁(現ニッカウヰスキー)設立。
昭和15(1940)年
「ニッカウヰスキー」発売。
【参考図書】
■ 三楽50年史 (三楽株式会社社史編纂室、昭和61年5月発行)
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