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鳥井信治郎を歩く(2) 学び舎・北大江小学校。

明治20(1887)年 (8歳)
4月1日
鳥井信治郎、北大江小学校(大阪市東区(*)島町)に入学。

杉森久英著「美酒一代・鳥井信治郎伝」(昭和41(1966)年、毎日新聞社刊)より、
信治郎が小学校へ入ったのは明治20年である。学校は東区島町の北大江小学校である。この年の同級生は十名であったが、その翌年の四月には、彼は尋常科四年を飛び越えて、高等科へ編入されたという。

* 平成元(1989)年2月、東区と南区が合併し中央区となる。

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(是非、地図サイトを参照しながら、お読みください)

鳥井信治郎の生家である両替商があった釣鐘町通と骨屋町筋の交差点から、上り坂をほんの50~60m歩くと、右手の釣鐘倶楽部の一角に釣鐘屋敷跡がある。



ここにも親切にパンフレットが置かれていた。
これによると、
・寛永11(1634)年7月、徳川三代将軍家光が地子銀(地代)を永代免除。
・同年9月、後世子孫をして、永くこの恩恵を忘れしめぬ為、釣鐘を鋳して時刻を報ずる。
・明治3(1870)年、釣鐘屋敷の「時の鐘」廃止。鐘楼撤去。時報は大阪城内から打ち出す号砲に変った。周辺15kmまで聞こえた。
・昭和60(1985)年、「鐘楼」復元、「時の鐘」復活。

残念ながら、信治郎少年は「時の鐘」は聞いていない。
毎日、彼が聞いていたのは「お城のドン」だった。

「釣鐘」は、現在、毎日8時、12時、日没の3回、コンピュータ制御で自動的に時を知らせている。



釣鐘屋敷跡から、東にさらに200mほど行くと、大阪市立中央高等学校がある。



北大江小学校の沿革である。
・「北大江小学校」創立(開校年不明)。
・明治19(1988)年  小学校令により「北大江尋常小学校」。
・昭和16(1941)年  国民学校令により「北大江国民学校」。
・昭和22(1947)年  学校教育法により「大阪市立東第一中学校」。
・昭和24(1949)年  「大阪市立東中学校」に改称。
・昭和63(1988)年  閉校。
・平成4(1992)年  跡地に「大阪市立中央高等学校」開校。

学校法令の変遷からみて、8歳になった信治郎少年が通った小学校の当時の名称は、北大江尋常小学校であったはずだ。

写真は、(マンションのような)7階建ての立派な中央高等学校の校舎。



釣鐘通を挟んで、南にグラウンド。



校舎の西側敷地境界の一角に、「東中学校跡」の石碑があった。



隣りに「北大江小学校跡」の碑。
信治郎の同級生は10人というから、当時は4年制だったので全校で40人、高等小学校(課程は2年または4年)が併設されていたとして、生徒数70人程度である。
小さな学校だったことは容易に想像できる。



サントリー社史でも、各伝記でも、小学校の住所表示は釣鐘町と同じ一区画の北側「島町」である。
確証はないが、島町に小さな学校ができ、沿革にみるように、拡張、縮小の結果、いまの中央高等学校の敷地に落ち着いたのではないかと想像している。

さて北大江小学校跡から、いったん鳥井信治郎生誕の地に戻り、そのまま緩い坂を西に下って松屋町筋を横断し、高麗橋へ向かう。



堀があり、橋が掛かり、上を高速道路が通る。
東京でもよく見かける風景だ。
この周辺が埋立地であることがひと目で分かる。



高麗橋の東袂で興味深いものを発見した。
「里程元標跡」の石碑である。



石碑にはつぎのように刻まれている。
「明治時代に 高麗橋東詰に里程元標がおかれ 西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた」

江戸と明治の時代の差はあるにせよ、ここは大阪の「お江戸日本橋」だということに気づく。
東は古くから開けた旧名渡辺、西は大阪証券取引所がある北浜(東京でいえば「兜町」)を始めとした商業地。

鳥井信治郎は、高麗橋を渡って、住込み奉公先の小西儀助商店と釣鐘町の実家を往来したのである。

【コース】 鳥井信治郎生誕の地釣鐘屋敷跡北大江小学校跡高麗橋(里程元標跡)。

   鳥井信治郎を歩く(1) 生誕の地、大阪・釣鐘町。
   鳥井信治郎を歩く(2) 学び舎・北大江小学校。
   鳥井信治郎を歩く(3) 小西儀助商店。

#サントリー

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