「ウイスキー博物館」(昭和54(1979)年刊。講談社)
30年前に、初めて買ったウイスキーの専門書である。
当時、特段ウイスキー好きということはなかったので、なぜ購入したのか、心当たりはない。
帯には次のようにある。
ウイスキーの神髄をそのまま伝えたい・・・三百点の写真図版と八百枚の本文原稿で再現した世界初のウイスキー体系
同じく帯に、
[本書の項目]
政治史/経済史/社会史/文明論/発芽/発酵/蒸留/熟成/ブレンド/味/酩酊/風土/風俗/エッセイ/未来
A四変形版174ページの豪華大型本である。
30年前に一般の愛飲家向けに、ウイスキーについてこれだけの全書が出版されてたことに驚く。
三たび帯に、
シャープな学識 水割りに悠然漂い
粋なエスプリ ロックに茫洋浮かぶ
そんな一杯 想いを寄せて
あの学者にこの作家 世界の科学者 日本のジャーナリスト・・・
一流人二十六名
ウイスキーの王国 琥珀色の世界に遊んで
百花繚乱 この一冊!
監修は、梅棹忠夫と開高健。
帯のコピーは開高の筆であろう。
ただサントリー本の域を出ていないのが惜しい。
ウスケベ・ゲーハー序章 (開高健)
スコッチ、アイリッシュ、カナディアン、バーボン、サントリー、これら五種をひっくるめて、今かりに”ウイスキー”と総称することにする。
社会史のなかのウイスキー (渡辺昇一)
鳥井信治郎が三井物産を通じてスコッチ・ウイスキーの製造法に関する文献を手に入れ、モルト・ウイスキーの蒸留をはじめたのも大震災の年であった。
発行年から推して、たぶんサントリー80周年を記念した企画本だったのかも知れない。
ブレンド
鳥井信治郎がサントリーウイスキーをはじめたのは1923年、大正12年のことであった。スコットランドに醸造を学んだ技師を雇い入れて、山崎に工場を建設しウイスキーの製造を開始したのが前記の年であった。大正12年に蒸留を開始して・・・(以下中略)。
昭和の初めの頃には、工場建設に当たった技師がすでに山崎工場を去ってウイスキーの製造とは縁が切れていたのであるから、日本におけるウイスキー造りの苦労は、サントリー・ホワイト発売の前から鳥井一人の双肩にかかっていたのである。
問題1
「スコットランドに醸造を学んで工場建設に当たった技師」とは誰か、答えなさい。(苦笑)
問題2
上記のブレンドの記述の間違いをひとつ答えなさい。
答え
蒸溜を開始したのは大正12年ではなく、大正13年12月ないし14年1月。
詳しくはこちらを参照。
問題3
(1) サントリー・ホワイトの発売の年月日と、
(2) 工場建設に当たった技師(=みんなが連想する「あのひと」だとしたら!=笑)が寿屋を退社した年月日を答えなさい。
答え
(1) 昭和4(1929)年4月1日、わが国初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売。
(2) 昭和9(1934)年3月1日、「あのひと」が退社。
上記のブレンドの文章を素直にそのまま読んだら、
工場建設に当たった技師が退社 → 「白札」発売、と誰でも思うでしょうね。
もうひとつの間違い(あるいは意図的な改竄?)。
問題4
ブレンドの著者はだれか、答えなさい。
答え
二代目社長で第二代マスターブレンダーの佐治敬三。
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国産本格ウイスキー第1号として発売された「サントリーウイスキー」は、白いラベルから「白札」と呼ばれた。
白札は、竹鶴政孝(以下、敬称略)が調合し、鳥井信治郎が試飲し、試飲だけで飽き足らず時に自らも調合し、それを何十回も繰り返し(ふたりの共同作業)、最後に鳥井が決断して、壽屋が誇りと自信を持って世に問うたウイスキーだと思う。
鳥井は壽屋の初代マスターブレンダー、竹鶴も後にニッカの初代マスターブレンダー。
揃って名人である。
やってみなはれ・みとくんなはれ サントリーの70年より引用。
小西儀助商店で調合の技術を学んだ。洋酒の製造法、販売技術、鑑定法についての基本的な知識を身につけることになった。「鳥井信治郎の鼻」といわれる天与の資質に、彼自身が気づいていたわけではない。また十六、七歳の少年であったのである。この少年を高給で迎えたいという同業者が何人か訪ねてきたというのだから、その才気と調合の技術は早くも近隣にきこえていたのだろう。
(サントリーウイスキーの試作品が出来あがったときに)信治郎は、ふたたび、工場長の竹鶴政孝をイギリスに派遣した。自分でも、原酒を持って専門家の意見を聞いてまわった。
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もし長男・鳥井吉太郎が早世していなければ、志の高い名著になっていたと思うと残念だ。
ただその点を差し引いても、当時としては唯一のウイスキー全書であったことに変わりない。
単なる偶然だが、この本が出版された年に竹鶴政孝翁が亡くなって(8月29日没)いる。
#サントリー